「理解する」とは
こんにちは。オンラインショップ「道徳の本屋さん」店長の佐野です。
先日、こんなことがありました。わが家には小学生から1歳児までの子供が3人いますが、私が仕事から帰宅すると毎日のように出迎えてくれるようになりました。そこで上の2人はその日あったことを「あのね、それでね」「今日、公園で~」とたどたどしいものの、自分なりに、一生懸命伝えようとしてくれます。
それに対し私は、ついつい上着を脱いだり、手洗いやうがいをしたりすることを優先させ、しっかりと話を聞きませんでした。すると気がそがれたのか、2人はテレビを見たり、おもちゃで遊んだりし始めます。私が自分の身支度を済ませて、子供たちに「さっきの話、なんだっけ」と聞いても「もういい」とこっちに見向きもしてくれません。その態度に私は「なんだ、自分勝手な子供たちだな」と思いました。
そんなやり取りを見ていた妻が口を開きました。
「子供たちは、自分たちが話しかけたときに聞いてもらいたいものなのよ。その時に聞いてもらえないと“受け止めてもらえなかった”と感じて、すねちゃうの」
ここで『ニューモラル 心を育てる言葉366日』の12月25日「『理解する』とは相手の下に立つこと」の一節をご紹介します。
――国立教育研究所長などを務めた平塚益徳氏(1907~1981)は、「アンダースタンド(理解する)という言葉の語源は『下に立つ』ということ。相手を尊敬し、相手から学び取ろうとする謙虚な精神があって、本当の理解ができる」と述べています。(略)それは親が子供に対するとき、上級生が下級生に接するとき、または親しい友人との間であっても「上」や「横」に立つことではありません。「相手よりも下に立つ」というほどの謙虚な心づかいで相手を思いやったときに、はじめて相手の心の一端が見えてくるのかもしれません。かけがえのない人間関係は、そこから築かれていくのではないでしょうか――
親として子供の「上」に立っている。妻に言われて気づくことができましたが、それまで私は子供たちの「上」に立つものとして、ついつい自分を優先させ、子供たちを後回しにしていたのです。これでは円滑なコミュニケーションも成り立たず、子供たちを理解することもできません。自分勝手だったのは、子供たちではなく、私だったという訳です。
子供や妻との関係性についても反省しましたが、ひるがえって「職場ではどうだろう、友人とはどうだろう」と自分の態度を反省した出来事でした。