嵯峨天皇と般若心経

こんにちは。オンラインショップ担当の望月です。
15年くらい前の話です。

役者を志していた私は、京都府で修行をしておりました。
「いっぱしの役者になるまで帰らないぞ」と決意した矢先、千葉県の実家の母親から「お父さんが倒れて入院した」と連絡が入りました。

すぐに帰って見舞いに行こうかどうか迷いましたが、いきなり帰っては先ほどの決意が弱くなると思い、どうにかして見舞いに行かないで、父に案じていることを知らせる方法はないかと模索しました。

そこで浮かんだのが「般若心経」を書いて送ることでした。
京都でたまたま神社仏閣巡りをしていたときに、旧嵯峨御所大覚寺門跡を訪問したことがありました。そこに嵯峨天皇と般若心経のエピソードが書かれてあったのです。

そのエピソードには、
その昔、疫病が大流行した際、嵯峨天皇が弘法大師空海の勧めによって般若心経の写経をされ、天下泰平を祈願されたことで疫病がおさまった
とありました。

これにならい、私も父の病が治るように、と般若心経をしたためて送りました。
そのおかげかどうかはわかりませんが、父は今、元気です。

ここで、当研究所教授・所功氏の著書『歴代天皇の実像』から嵯峨天皇について書かれた一節をご紹介します。
―—唐風を好まれた天皇は、弘仁九年(818)、「天下の儀式(拝礼の仕方など)、男女の衣服(礼服・朝服など)皆唐法に依れ。五位已上の位記も改めて漢様に従へ。諸宮殿・院堂の門閣、皆新額を着けよ」と命じられた。
そこで、延暦の遣唐使であった儒官の菅原清公(道真の祖父)が、大内裏の殿名・文号を唐風に改めている。しかも、そうして新しく選ばれた12門号のうち、北面の門額は天皇自身、南面の門額は空海、東面の門額は橘逸勢(西面の門額は少し後の小野美材)の筆になるものが掲げられたという。
後世、この天皇と空海と逸勢は、唐風の三筆(名筆家)と称されている。
こうして唐風文化を宮廷社会に普及された天皇であるが、もちろん唐風一辺倒になられたわけではない。たとえば、衣服の制にしても、弘仁11年(820)、「朕、大小の諸神事、及び季冬(12月)諸陵奉幣には、則ち帛衣(白い練衣の和服祭服)を用ひ、元正の朝(元日朝賀)を受くるには則ち袞冕12章(唐風礼服)を用ひ……大小の諸会には則ち黄櫨染衣(束帯)を用ひよ」と和風と唐風を明確に区別し併用しておられる―—


このように、和風だけでなく唐風文化に習熟された嵯峨天皇。
この書籍から般若心経とは違うエピソードも学べます。
また、嵯峨天皇だけでなく歴代天皇の事跡が収録されてあります。

令和元年を迎えた今月。ぜひ現代だけでなく125代にのぼる天皇の事跡をお調べになってはいかがでしょうか。
なお、『歴代天皇の実像』を含んだ『皇室に学ぶ徳育』『皇室の伝統と日本文化』の3冊をお買い得にご購入できる「皇室に学ぶセット」もご用意しております。

 

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