日本の国柄と骨格の再確認

 こんにちは、忍足(おしだり)です。
 4月に入って一週間が経ち、新たな一歩を踏み出された方も多いことと思います。努力を経て、新しい世界への門出を迎えた方々、どうか健康に気をつけて頑張ってください。

 私が最初に社会に出たのは、今から25年ほど前のこと。右も左もわからない新人の私を鍛えてくれたのは、周囲の先輩方でした。書類上のケアレスミスや連絡ミスなど、今思い出すとしょうもないミスをやらかしてきたものです。そうしたミスをフォローしてくれた先輩には今でも頭が上がりません。
 また、たくさんの人にお会いして感化を受けることで、人間的に成長する実感を得るのは、新人時代にこそ多かったと記憶しています。
 やらかしてしまった話は別の機会にさせていただき、今回は仕事を通して出会ったある方のお話しをしたいと思います。

 名越二荒之助先生(〔なごしふたらのすけ〕1923~2007)とお会いしたのは、私が『れいろう』誌の編集担当だった平成11年のこと。当時『れいろう』誌の著名人を紹介するコーナー「この人に聞く」にご登場いただきました。
 取材の前は、“偉い大学教授で気難しそう”というイメージしかわかず、正直ビビッていました。取材当日のこと、カメラマンと一緒に名越先生のお宅の最寄りの駅に到着。お宅に電話を入れてしばらくすると、ほがらかな笑顔を浮かべながら自転車に乗った名越先生が現れました。
「おお、よく来たね。私の家はここから近いんだけど、わかりにくくてな。誰か来てくれる時にはいつも自転車で迎えに行くんだよ。じゃあ、ついてきて」
 ペダルをこいで颯爽と走り出す名越先生。足早に後に続く取材組の二人。お宅に到着し、取材が始まってからも笑顔は変わりません。ソ連に抑留された話になっても、恨み言を述べることのない名越先生は、筆舌に尽くせない苦労をされたはずなのに、「私にとっては、ソビエト共産党は教師であり、収容所は学校でした。良い勉強をさせてもらいましたよ。わははは」と笑い飛ばしてしまいます。そんな明るいお人柄の名越先生ですが、戦後、日本の文化や歴史について正しく伝えようとしないマスコミや教育界、その他もろもろに対しては、苦言を述べられていたのを思い出します。

 そうした縁もあって、平成17年に『れいろう』誌上で「語り継ごう日本の心」の連載が始まるとき、私が担当を務めることとなりました。
 連載半ばで私は他の部署へ異動となり、担当を外れることとなりましたが、その連載は終了後に『史実が語る日本の魂』という一冊の本へと結実しました。

「日本の国柄、骨格がどういうものなのか正しく理解し、それを世界に発信することが大切である」
 そう語っていた名越先生の言葉通り、本書では、あまり光が当てられることのない日本の歴史的事実が豊富な写真とともに紹介されています。最初のエピソード「パラオの月章旗とサマワの自衛隊」では、パラオの国旗を広げ、満面の笑みを浮かべる在りし日の名越先生の写真が掲載されています。

 4月11日は、名越先生の命日。その日を前にして、名越先生が紹介してくださった日本の国柄、父や母や先輩が苦難の時代を乗り越えてきた歴史、それらを知るとき、このたびの新型コロナウィルス感染症による影響も、我々日本人はまた突破してしまい、次世代、次々世代へのよき手本を残していくのだろうと、予感めいた気持ちを私は持ってしまうのです。