生前整理を始めた母

「道徳の本屋さん」の忍足です。
元気な姿の親を前に、いつしか“親は年をとらない”と思い込んでしまうもの。
今回は突然、現実を目の前にして愕然としたエピソードと、息子の私から年老いた母へ伝えたい思いをまとめました。

 

体力や記憶力が衰えていく晩年こそ、精神的には円熟期。晩年を生きる母だからこそ、できることがある!!

 私の母は、現在、一人暮らし。徒歩圏内で、生活に必要なものがたいてい揃う環境にいます。何か困ったことがあると、小回りが利く妹に電話をかけては頼みごとをしていました。

「お兄ちゃん、お母さんの様子、ちょっとおかしくない?」
 昨年のお盆のころ、妹からこう言われました。

 お寺さんへの挨拶やお盆の準備など、いつも自分で進めていたことを「なんかしんどいから、あんたに任せるわ」と言いながら私に仕事を振る母。確かに、体力や記憶力に衰えがあるとは感じていたものの、年相応だと思っていました。

 しかし、一年が経ち、今年のお盆。母と会話を交わしていると、同じ話を二度三度と繰り返すことが増えていることに気づきます。

 妹が母を病院に連れていき、診察してもらった結果は、初期のアルツハイマー型認知症。妹と私はある程度予想していたものの、母本人にとっては青天の霹靂でした。それでも、「年をとればそんなこともあるでしょう」と気丈にふるまう母を見て、何とも言えない気持ちになる私でした。
 

「そういえば、お母さんって何歳だっけ?」
とふと思い、インターネットで「昭和15年生まれ 何歳」と打ち込みました。表れたのは「80歳」の文字! 思わず「え、ウソやろ……」というつぶやきが口から漏れ出しました。

 どういうわけか、私の中では“親は年を取らない”という固定観念がありました。いつまでも元気で、子供である私や妹の世話を焼いている。年齢だって40代はないにしても、せいぜいが50代か60代――そんな風に思いこんでいました。

 しかし、冷静に考えれば私自身がすでに50代。その親が50代か60代なんてことがあるわけがない。ともかく「親も年をとる」という現実を目の前にしたとき、愕然としたのです。
 

生前整理を始めた母

 そうこうするうちに9月の末になり、母に呼ばれて私と妹は家を訪ねました。
母は、「忙しいのにごめんね。家の中を整えておかなくちゃね。私に万一のことがあったとき、何がどこにあるかわからないとあんたたち子供が困るから」と言いながら、溜まった書類やメモ類を片付けていきます。

「そんなのどーでもいいから、困らせておけばいいんだよ! それに、孫育てだって残ってるだろ。なんで、もう終わったつもりになってるんだよ!」

 と、喉まで出かかりました。

でも、これを言ったら母が悲しそうな顔をするのに決まっています。
 私は笑顔で「困るようなことなんてないよ」
と言いながら、母の指示通りに動き、片づけを手伝いました。あと、どれくらい、親の手伝いができるのだろうかと思いながら。

 

生きている以上は、その生に意味があるわけで……

 でも、それをうまく母に伝えたいのに、感情が先に立って冷静になることができない自分がいる。

 そんな状況の中で手に取った『れいろう』11月号。
「れいろうカレッジ」コーナーのテーマは「人生をめいっぱい豊かに生きる」です。

 不思議なもので、問題意識が自分の中にあるとき、関連する情報がすぐに目に飛び込んできます。誌面にあったのは「誌上ゼミナール」のこんな一節。

―― 私たちは、体力や記憶力などの衰えに注目しがちですが、年齢を重ねたからこそ達することができる精神的な成熟の境地にも目を向けるべきではないでしょうか。自分という存在の意味や役割、次世代に伝えられる考え方や生き方に思いを向ければ、希望の光は見えてきます ――
 

“衰え”ばかりに目を向けないで。
まだまだ輝く母の姿を見ていたい。

 身体的に衰えていっても、精神的には円熟期。その高い精神性を鼓舞してほしい。
 きっとそんな姿が、次世代の私にも“老い”に対して明るい道筋となっていきそうです。何歳になっても、まだまだ母に教えてもらうことばかりです。

 今週末に、この『れいろう』を持って母を訪ね、会話を楽しんできたいと思います。