母の自由研究

こんにちは。オンラインショップ担当の小林です。
先日、小学6年生の息子が、卒業文集に載せる作文の下書きを小学校から持ち帰ってきました。そこには、夏休みに家族一緒で取り組んだ「ダンゴムシの自由研究」について書いてありました。

1年生の時、ダンゴムシの生態について調べた息子に、
「来年はどんなことを調べたいの? 」と聞くと、
「ダンゴムシと似てるから、ワラジムシを調べようかな」と息子。

そうして2年生の時は、ダンゴムシとワラジムシの足の速さの違いや体の特徴について調べました。
「来年はどんなことを調べるの? 」と聞くと、
「“うんち”と“おしっこ”をするのか調べたい」と息子。

そうして3年生の時は、家族一緒にその瞬間をひたすら待ち続けました。
しかし実は、ダンゴムシもワラジムシも体内のアンモニアを水分として排出しないのです。そこで、息子が「もしかしたら“おしっこ”しないのかも? 」と疑問に思うまで、ずっと辛抱した夏でした。
「来年はどんなことを調べるの? 」と聞くと、
「丸くなって敵から身を守るダンゴムシと、早い足で逃げるワラジムシ。もし、この2匹に子供がいたら、防御が強いに違いない! 」と、息子。

そうして4・5年生の時は、その空想の生き物に“ワラダンゴムシ”と名前をつけ、実際に存在するかなどを調べました。

こんなふうに子供の発想はとても自由で面白いのですが、実際に調べるとなると容易ではありません。
「どんな方法で調べたらいいと思う? 」「なんでだろうね? 」などと、わざと声をかけるようにしていた私。調べる方法についても、おかしいと思うところは指摘しました。作文についても、表現方法や句読点、習った漢字を使うようにするなどアドバイスをしました。
“それにしても、私はこれでいいのだろうか……”
家族一緒に取り組んだ自由研究を、息子の作品として小学校へ提出することに不公平さを感じ、それが“罪悪感”となっていました。
ただ、何に対して罪悪感を持つべきなのかをよくよく考えてみると、それは息子に対してだと思ったのです。息子のいろいろな力を奪わぬよう注意をして取り組めばたくさんの可能性があると、そんな“期待”を持つことにしたのです。
それからというもの、私はどこまで口を出すべきか、出さないべきか、その判断に葛藤する毎日。口を出してしまったときの“罪悪感”を一番に恐れながら、口に出せない“はがゆさ”がとても苦しかった。

しかし、息子が小学校から持ち帰った卒業文集の下書きには、次のように書いてありました。
“自由研究が楽しくて、いつしか理科に興味を持ちました。理科の実験結果には次につながる謎があり、その結果もまた次の謎につながっていると思うと何だか楽しくなってくるのです。だから、ぼくは将来、生物関係の学者になりたいです。疑問に思ったことは実験したり記録したりします。それをもとに自分なりの図鑑を作ってみたい”と。

ちゃんと息子の力になっていたのですね……。

ここで、有吉忠行さんの著書『すばらしき母親の物語 母と子の感動42編』「4 わざと道草、子供を主役に」から一節をご紹します。
――「子供が感動や驚きを伝えてくれたときは、それがどんなに小さいことであっても“そんなすばらしいことを考えたの。よく考えたわね”と偽りのない言葉をかけてやる。子供は大発見のように喜ぶ。そして、小さい子なりの感動する心と、考える心を深め、やがて自分の個性へつながる素地をも自分でつくっていく。これも、かけがえもなく、うれしい。今の子供たちの多くが、どの子も同じようになっていますからね。子供の将来に気を奪われるよりも、今の目の前の子供に、子供主体の親の思いを注いでいくことが一番大切でしょう。将来の自律の心は、子供のときからでないと……」  親の本当の責務。私はこのことを思った――

「子供主体の親の思いを注ぐこと」
これはまさに、私の自由研究のテーマだったのかもしれません!

今日ふと、研究所・キャンパスの落ち葉の上を歩く幼稚園児とそのお母さんの姿を眺めながら、
“ああ、息子の散策を一緒に楽しんでいたあの頃のように、私自身ももっと自由研究を楽しめば良かったな……”と、思った小林です。

 

にほんブログ村 本ブログ 本・読書情報へにほんブログ村「本・読書情報」に参加しています。