吉野山の下見
こんにちは。オンラインショップ担当の望月です。
皆さまはお盆の期間、どちらかへ行かれたでしょうか。私は三重県にある妻の実家へ帰省しました。妻の兄弟が実家へ集合するまで、私と妻はご両親の案内に従って、三重県近辺の観光を楽しみました。その中の一つとして、奈良県の吉野山へ連れて行っていただきました。この吉野山は、毎年春になると山一帯が山桜で覆われ、なんとも言えない綺麗な光景になるそうです。私の父は、母と結婚するときに、「いつか吉野の山桜を一緒に見に行こう」と約束したらしいのですが、もうかれこれ50年近く経っても、行く気配すら感じません。また、父の足は悪くなる一方です。「それなら私が一肌脱ごう」と思い、両親を連れていく前に、下見のつもりで訪問しました。
訪問してみると、「吉野=山桜」と思っていた私の頭の中は180度変わりました。吉野は、「南朝の皇居」なのです。それは、後醍醐天皇が潜幸された吉水神社をお参りしたときに理解できました。
ここで、所功さんの著書『歴代天皇の実像』から一節をご紹介します。
――ただ、この中興政治では、上級公家が八省の卿(長官)などに配される反面、有力武将が必ずしも優遇されなかった。そのため、建武2年(1335)北条氏の残党挙兵(中先代の乱)を討つため関東へ下った足利高氏(のち尊氏)が、不平を懐く武士らを集め、再び叛旗を翻して京都へ攻め上ったのである。
その軍勢は、奥州から馳せつけた北畠顕家らにより京都を追われ、いったん九州へ落ち延びた。しかし、高氏は間もなく体勢を立て直して攻め上り、翌年5月25日、湊川の決戦で楠木正成らを破っている。そこで、(後醍醐)天皇は比叡山へ脱出され、やがてその年の延元元年(1336)、大和国の吉野へと潜幸を余儀なくされたのである。
それから3年間、(後醍醐)天皇は京都回復の望みを持ち続けられた。しかしながら、延元四年(1339)8月16日、52歳の生涯を閉じておられる。『太平記』によれば、その際、右手に御剣、左手に『法華経』を持ち「玉骨はたとへ南山(吉野)の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕(京都御所)の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽んぜば、君も継体の君に非ず、臣も忠烈の臣に非ず」と遺言されたという。――
写真は、後醍醐天皇が行宮(仮の御所)とされた吉水神社の縁側から見た光景です。写真真ん中の右手にある門が北闕門であり、写真奥に見える建物は金峯山寺です。後醍醐天皇は、きっとこの縁側から北にある京都を思って眺めていたのではないかと思うと感慨深いものがありました(なお、吉野山には後醍醐天皇御陵もあります)。
自分の親を吉野山へ案内するときは、山桜だけでなく、この後醍醐天皇の思いも、大切に紹介しなくてはと決心する下見となりました。