「次」に送る「恩返し」
日常生活を送る中では、事の大小を問わず、他人から親切にされたり助けられたりすることがあるものです。その相手が見返りを期待して親切にしたわけではなくとも、お世話になったことに対して恩を感じ、お返しをしようとするのはごく自然なことでしょう。しかし「本人に直接返す」ということが難しい場合も、意外に多いもの。こうした「恩」に対しては、どのように報いていくことができるでしょうか。
■「恩」を返したいときは……
「旅先で一度会っただけで、名前も分からない人に助けられた恩」「今は亡き親の恩」……。こんなふうに「本人に直接返す」ということが難しい「恩」もあるもの。そうした場合に大切にしたいのが、恩人への感謝の心を「ほかの人への善意」に転じて「次の人」に送っていくという考え方です。
例えば、旅先で受けた親切を、次に自分が出会う人たちへと送る。職場や学校の先輩にお世話になったのなら、自分もその立場になったとき、後輩に対して同じように接していく……。これらは、個人が日常的に実践できるささやかな「恩送り」の方法といえますが、国と国との間、さらには歴史的な出来事の中にも、そうした事例は存在します。次に紹介するのは、日本とトルコの交流史の中にある「恩送り」の逸話です。
明治23年(1890)、トルコからの初の使節団を乗せた船、エルトゥールル号が日本を訪れました。使節団は3か月間の日本滞在を経て帰国の途に就きましたが、折悪しく台風に遭ったエルトゥールル号は和歌山県の串本沖で沈没し、600名以上が大荒れの海に投げ出されたのです。
直ちにその救助に乗り出したのは、和歌山県沖に浮かぶ紀伊大島の島民たちでした。現場は約60メートルの崖下にある海です。しかし島民たちは、一人でも多くの生存者を助けようと、ひるむことなく海に降り立つと、息も絶え絶えな遭難者を背負って絶壁をよじ登りました。そして傷の手当てはもちろんのこと、冷え切った体を抱き寄せて自分の体温を分け与え、さらには非常事態に備えて蓄えてあった食糧の一切を提供するなど、懸命にその命を救おうとしました。結果として、69名のトルコ人が助かったのです。
このエルトゥールル号遭難時のエピソードは、トルコの歴史教科書にも掲載されており、トルコでは誰もが知るほど歴史上重要な出来事であるということです。
■95年先に送られた「恩」
エルトゥールル号の遭難から95年を経た、昭和60年(1985)の出来事です。イラン・イラク戦争中の中東から、衝撃のニュースが発信されました。
イラク側が「イランの首都・テヘラン上空を航行する航空機は、どこの国のものであろうと撃墜する」という方針を決定したのです。タイムリミットはわずか2日後。日本政府は現地にいた日本人の救出のために手を尽くしますが、限られた時間の中で、もはや万事休すという事態に追い込まれました。
このとき、取り残された日本人215名を救出してくれたのがトルコ航空機でした。現地のトルコ大使館から日本大使館へ「日本人に席を割り当てるから利用せよ」と連絡が入り、間一髪、無事に脱出することができたのです。
トルコの人たちはなぜ、危険を冒して日本人を助けてくれたのでしょうか。その答えは平成13年、駐日トルコ大使であったヤマン・バシュクット氏への『産経新聞』の取材の中で、こう語られています。
「特別機を派遣した理由の一つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは、1890年のエルトゥールル号の海難事故です」と。
まさに95年も前の日本の先人たちによるトルコ人遭難者への献身が、トルコの人たちの胸に「恩」として刻まれ、後世に「送られてきた」ということができます。
(参考=占部賢志著『歴史の「いのち」――時空を超えて甦る日本人の物語』モラロジー研究所)
■常に感謝の心で
私たちは日々、さまざまな人や物事の支えを受けながら生活しています。そこには、お世話になった本人に直接返すことができない恩も、あるいは返しきれないほど大きな恩もあるでしょう。そうした中でも、自分から「次」の誰かにその恩を送り、送られた人もまた「次」の誰かに送るということを繰り返したなら、時代も国境も越えて「人を思う温かな心」が社会の中をめぐっていきます。
大きな困難の中で助けられた体験は記憶に残り、「なんとかしてお返しをしなければ」という意識も高まるものでしょう。しかし根源的な恩恵は、「当たり前」の日常の中にも存在するのではないでしょうか。例えば、衣食住をはじめとして私たちの生活を支えてくれている「誰か」の力。さらには、自分の命を育んでくれた親祖先や大自然の恩恵……。そうしたことを「自分が受けている恩」として明確に認識し、これに感謝する心を持つことが、恩返しの第一歩になるのではないでしょうか。
その心がけ一つで、恩返しとしての「恩送り」は、いつでも、どこでも、どのような形でも行っていくことができるのです。
(『ニューモラル』556号より)