感謝の種を育てよう ~ 道徳授業で使えるエピソード~

いつも感謝の心を抱いている人は、心が安らかで、周囲の人々をも明るく喜ばせることができるものです。
今回は、身近なモノに対する接し方や日々の態度から、感謝の種を育てる心構えについて考えます。

■怒りの矛先

「おっと、もうこんな時間か……」
時計の針は正午を指しています。
ここは東京都内にある食品メーカーの営業部。佐藤さんは営業課の係長です。今日は土曜日で本来ならば休みですが、急ぎの業務を抱えていたため、朝から1人で出勤していました。午後からは長男太一くん(2歳)を連れて動物園に行こうと、今朝、妻の優子さんと約束をしてきたところです。
「よしっ。これで終わりだ! 帰れるぞ」
そう言って、大きく伸びをした瞬間、電話が鳴り、驚いて受話器を取りました。
「佐藤くん? よかった。まだいてくれて」
電話の主は、上司の山田課長です。
「ちょっと悪いんだけど、例のカタログと見積書、これからすぐ先方に届けてくれないか?」
「えっ。今からですか?」
昨日の打ち合わせでは週明けに届ければよいという話でした。
「今、先方からぼくの携帯に連絡があって至急ほしいそうだ。ぼくが行ければいいんだけど、今、家族と福島の妻の実家に向かっているところでね」
“おれだって家族と出かける予定が……” 佐藤さんはその言葉をグッと飲み込みました。営業にとって相手の会社は最も大口の取引先です。
「了解しました。すぐ届けておきます」
言葉づかいは丁寧ながら、その顔は紅潮しています。課長の電話が切れるのを確認するや、佐藤さんは受話器を力任せに電話機に叩きつけました。

■モノに当たってもしょうがない

無事に書類を届け終え、佐藤さんが自宅へ帰り着いたのは午後2時半。
「おかえりなさい。すぐ行けるわよ」
優子さんの言葉に、佐藤さんは少しホッとしましたが、胸の奥は乱れています。
家族3人、車に乗り込みましたが、佐藤さんはカーナビがおかしいのに気づきました。説明書を見ながら操作しますが、うまくいきません。
「ええい。もう、このバカ!」
佐藤さんはそう叫びながら、手に持っていた説明書を丸め、カーナビの画面に向けて思い切り振り下ろしました。
ビシッ。鈍い音と同時にカーナビの液晶画面にひび割れが広がります。それを見た佐藤さんは、より感情が高まりハンドルを右手でバンと叩いてしまいました。
「ちょっと、あなた何しているの。落ち着いてよ。モノに当たってもしょうがないでしょう!」
その言葉に佐藤さんはハッと我に返り、少し落ち着きを取り戻しました。

■運転上手の秘訣

「あなた。太一、寝たわよ」
後部座席から優子さんが小声でささやきました。
佐藤さん一家は地図を頼りに動物園に無事到着し、見学を終えて帰宅途中です。
「あんなにはしゃいだ太一、初めて見た。行ってよかったわ」
「そうだね。トラブル続発で出発が遅れたから、一時はもう行くのを諦めようとも思ったけれど……」
「あなたは少し短気で、モノに当たる癖があるわね。自分では、それで憂さを晴らしているつもりでしょうけど、モノは傷むし、周囲も気分が悪いのよ」
佐藤さんは、昼、職場の電話に当たったことも思い出しました。反省する佐藤さんに、優子さんは友だちの話を紹介しました。
「友人の京子ちゃんね。運転が丁寧でスムーズなの。『運転上手ね』って褒めたら、はずかしそうに『いつも車に話しかけながら運転している』って教えてくれたのよ。
『いつもよく走ってくれて、ありがとう』とか。遠出するときには『いっしょにがんばろうね』と言葉をかけるらしいのよ。それ聞いて私、なるほどって思ったの。そうやって常に車に愛情をもって接しているから、当然、車に負担をかけるような無理な運転はしなくなるわよね。
もしかしたら、車やモノにも人格があるように優しく接するからこそ、彼女はいつも温和な人柄なのかなあとも思ったわ」
佐藤さんは優子さんの話を聞きながら、自分を振り返りました。
“おれには、そんな心はないなあ。モノはモノでしかなく、心も感情もないから、つい、ぞんざいに扱ってもかまわないと考えがちだ。でも、そんな態度を取ることが、家族や周りの人たちにも知らず知らず悪影響を与えていたかもしれない。これから少しずつ態度を改めよう”
そう誓ったところで、車は無事自宅に到着しました。駐車場に車を停め、車から降りると、佐藤さんは「いつもありがとう。今日はゴメンな。これからもよろしく」と愛車に優しく語りかけました。

■モノにも礼儀正しく

さまざまな人間関係の中で過ごし、多くの出来事に遭遇する私たちは、時に自分の思うようにならない状況に直面し、心に怒りや不満を覚えることがあります。それは広く人間に共通するごく自然な感情です。
しかし、その感情をどのように処理するのか、それは人によって違います。高ぶった感情をそのまま言葉や態度で直接表現する人。表に出さず、それを自分の心の中で押し殺す人。中には佐藤さんのように、つい身近なモノに当たってしまうという人も少なくはないでしょう。
モノには感情がないため、どう扱っても反論が返ってくることはありません。だからムシャクシャしたら感情をぶつけてもよいのだという人もいますが、一方で、モノ自体に罪はなく勝手な感情をぶつけるのは筋違いとして、人間同様の「礼」をもって大切に接する人もいます。モノへの対応1つとっても、人によって心の持ち方は180度違っています。
車や電話、靴、時計、食器など、日ごろよく使うモノの「労」に報い、「ありがとう」と言葉をかけてみましょう。それでモノが喜んだり、元気になることはありません。しかしそうすることによって、使う人間自身の精神に感謝の心が引き出され、豊かな気持ちになることができます。それが積み重なるうちに、豊かな人間性の醸成にもつながるのです。

■感謝の心が元気を作り出す

感謝の心は、私たちが考えている以上に大きな力を与えてくれるようです。次のような話があります。
2000年のシドニー五輪の女子マラソンで、みごと金メダルを獲得した高橋尚子選手。その強さの源について、スポーツドクターの辻秀一さんは次のように述べています。
「感謝の心を持って、いつも与え続けることで高いパフォーマンスを発揮しているアスリートの1人が高橋尚子選手です。
他のマラソンランナーは周りの期待に応えながら走り、プレッシャーを感じています。高橋選手は42.195キロの沿道の人たちに『ありがとう』と言いながら走るそうです。おまけに30キロ付近で競り合っているライバルにすら『ありがとう』と言って走るからこそ強い。相手が『どういたしまして』と言わなくても、そう心で言っているほうが心の元気が作り出せるわけです」(モラロジー研究所『道経塾』第48号より)
人は状況によって、さまざまな感情を抱くことが可能です。高橋選手のように感謝の心で受け止めることで、大きな力を発揮することができ、困難な状況を乗り越えることもできるのです。

■心が人生をつくる

「いつも感謝しています」「ありがとう」と、日々の生活を支えてくれている道具や用品に感謝をする。返答はない一方通行の感謝ですが、その心がけはモノのいのちを生かし、私たちの心にある感謝の種を育てていくことになるのです。
いつも感謝するという習慣をつくってみませんか。その習慣は、きっと私たちの日々の生活に潤いと温かさを与えてくれ、人生さえも大きく変えていくはずです。

(『ニューモラル』458号より)

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