心を曇らす「思い込み」 ~ 道徳授業で使えるエピソード~
食べたことがなく、味もよく分からないのに「嫌いだ」と思い込むことを「食わず嫌い」と言います。
人間関係においても、私たちは他人のほんの一面だけをとらえて、あの人とは性が合わないと勝手に決めつけて、避けてしまうことがあります。これは自分の「思い込み」だけで判断していることで、現実に向き合おうとはしていないようなものです。
今回は、この「思い込み」について考えてみたいと思います。
■見えなかったゴミ
ある日曜日、会社員の石川さんが町内会の朝掃除に参加したときのことです。この活動は町内から最寄り駅までの約2キロの道を清掃するというものです。当日は朝7時の集合時間に、30人が集まりました。石川さんは、30人が一生懸命に行えば1時間ぐらいで終わるだろうと安易に考えていました。
ところが、実際にゴミを拾いはじめると、紙くずや空き缶、レジ袋など、意外に多くのゴミがあることに気づきました。“やるからにはゴミ1つない道路に”と意気込んでいた石川さんでしたが、1つ拾えばまた別のゴミが目につくという具合で、予定の終了時間までに駅にたどりつくことができませんでした。
“毎日、通い慣れていた道が、こんなに汚れていたなんて……”
それまで地域の環境美化に関心を向けてこなかった石川さんにとって、それらのゴミは見慣れた町の景色の一部でしかなかったようです。昨日も一昨日も道端に転がっていた空き缶は、その日、初めて「拾うべきゴミ」として意識されたのです。
■心ここに在らざれば……
「心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども聞こえず、食へども其の味を知らず」(『大学』)という言葉があります。
「心がはりつめていないと、(目では)視ていても(それが何であるか)見分けられず、(耳では)聴いていても(それが何をいうか)聞き分けられず、(口に)食べていてもその味がわからない」(赤塚忠『新釈漢文大系2』明治書院)という意味です。
実際、私たちの物の見方やとらえ方は、その時々の「心の状態」に大きな影響を受けています。
人間関係においても、他人のささいな行動や性格の一面だけを取り上げて、「この人は自分と性が合わない」と決めつけ、心の眼を塞いでしまって、その人の美点や長所を「視れども見えず」にしてしまっていることがあります。これでは相手に対する心づかいに欠け、豊かな人間関係を築くことができません。
思い込みにとらわれた1つの例として、ある経営者の経営体験を見てみましょう。
■田中さんの計画
ある機械メーカーの2代目社長を務める田中さん(48歳)には、自分の勝手な思い込みから、会社経営が傾きかけた苦い経験があります。
今から10年前、田中さんが創業者である父親から社長を受け継いだばかりのことです。
父親の会社に入るまで、米国の大学に留学した後、外資系の経営コンサルティング会社で働いていた田中さんは、旧来の手法を頑に守り続ける父親の経営方法を「時代遅れ」と感じていました。
入社して数年後、父親が引退して自分が社長になると、3年後に新工場を中国に建設する計画を掲げ、社内の一大改革に乗り出しました。
社員の意欲と能力を底上げしようと、仕事の成果と報酬が連動する成果主義を導入しました。さらに、評価の低い社員はやる気がなく、社員教育に経費をかけるのも無駄という考えから、評価の高い社員だけを選抜しての体系的な社員教育制度を設けました。
田中さんから「やる気がなくて動かない人」と見なされたのは、ほとんどが創業時代から会社にいる50歳代後半の社員でした。田中さんにとって彼らは、父親と同じく時代遅れの感覚しか持ち合わせていない、言わば会社の「お荷物」としか見えていなかったのです。
社長に就任した2年後、会社は売上げと利益を倍増する躍進を遂げました。田中さんには大きな自信と達成感がありました。
ところが、中国工場の完成が目前に迫ったころ、育て上げた幹部候補生たちが次々と辞めていくようになりました。その理由は共通して、「もっと自分の力が試せるところに行きたい」「より給料のよい会社から声をかけられた」というものでした。
中国進出の要になってもらうために、それまで時間とお金をかけて育ててきた社員たちの退職は、田中さんの計画を大きく狂わせました。すでに多くの先行投資をしている中国進出を白紙に戻せば、会社存続の危機を招きます。田中さんはいらだちを募らせ、社内の雰囲気はどんどん悪くなりました。それと同時に業績も悪化し、いつしか経営も危うくなっていきました。
■「心の眼」を曇らすもの
その窮地を救ったのは、田中さんが「お荷物」の筆頭と決めつけていた前工場長の佐藤さんでした。
「社長! 心配しなくても、我々が会社をしっかり支えますから」
佐藤さんはベテラン技術社員とともに、中国の新工場へ行くことを自ら志願したのです。
やがて経験豊富な彼らのおかげで、中国工場はなんとか軌道に乗り、そこで製造される製品は市場で高い評価を受けました。会社の業績も少しずつ改善されていきました。
田中さんが、古参の社員たちを一方的に会社の「お荷物」と決めつけていた背景には、「従来のやり方は間違っている。米国で最先端の経営を学んできた自分のやり方こそいちばん正しい」という高慢で頑な心が原因であったようです。そうした心が、田中さんの“心の眼”を曇らせてしまったのだといえるでしょう。
この経験を通じて、業績を上げ、会社を大きくするために、社員を数字だけで一面的に評価していたことが、いかに愚かで間違っていたかを思い知りました。
そして、父親の代から会社を支えてきた佐藤さんたちを時代遅れの人間と決めつけ、その美点や長所に目を向けてこなかった自分の心の視野の狭さを深く反省したのでした。
■「視れども見えず」
高速道路上で車を運転しているとき、スッとわきから進入してくる車にヒヤリとした経験はないでしょうか。
人間は通常、立ち止まっている状態では周囲200度の視野があります。それが時速40キロだと半分の100度に、100キロではわずか40度ほどの範囲に狭まります。
私たちの思い込みの心は、高速道路を時速100キロで走っているときの状態に似ているようです。
「それはこうに決まっている」「自分は絶対に正しい」という一方的に偏った思いを強くすればするほど、あたかも高速道路で運転しているときのように、心の視野が狭くなり、周りの状況がよく見えなくなるのです。
■「柔らかな心」が見方を変える
私たちが人や出来事を正しく判断しようと思えば、多面的な見方ができるように、常に私たちの心を柔らかくしておく必要があります。
「手際が悪い」と思える人も、見方を変えれば「慎重な人」と言えるでしょう。「おせっかいな人」は「面倒見がよい人」、「頑固、強情である」は「意志が強い、根性がある」と、見方を変えることができます。
車のスピードを緩めれば運転する人の視野が広くなるように、人や物事を多面的にとらえるためには、時に立ち止まって、「待てよ、こういう見方もできるかもしれない」と思いをめぐらす「柔らかな心」が大切なのです。
私たちはさまざまな場面に遭遇した場合、自分が必ず正しい、絶対に相手が悪いと思ったときこそ、気をつけなければなりません。柔らかな心を持ち続けようと努力することによって、おのずと心の曇りが晴れ、私たち自身の人間性が高まっていくことでしょう。
(『ニューモラル』436号より)