世界に誇る「日本の心」 ~ 道徳授業で使えるエピソード~

家庭や学校、会社など、ふだんその中にいるとなかなかよさや問題点に気づかないものの、外から眺めると比較的簡単に見えてくることはありませんか。
今回は、外国人から見た日本の印象や、日本を飛び出し外国で活躍する日本人の姿などをもとに、日本そして日本人が培ってきた「心」について考えていきたいと思います。

■「日本はすばらしい国」

「ねえ、お父さん、その新聞記事、すごくない。奇跡だよね」
夕食を終え、新聞を読んでくつろいでいる父親の村田仁志さんに、いつものように声をかけてきたのは娘の知美ちゃんです。
仁志さん一家は、妻の佳子さんと中学1年生の知美ちゃんの3人家族。知美ちゃんは小学6年生のときに新聞を活用した授業が行われるようになったことをきっかけに、少しずつ新聞に目を向けるようになりました。そしてひと月に数回、疑問やおもしろいと感じる記事を目にすると、仁志さんに質問したり、意見を求めたりするようになりました。
知美ちゃんが指した箇所には「日本はすばらしい国」という見出しがありました。内容は、日本のある賞を受賞したイギリス人が、授与式に出席するために来日した際の出来事についてでした。そのイギリス人は今回が初めての来日。記者から日本の印象を聞かれたところ、伊豆旅行でスーツケースと財布の入ったバッグを駅のホームに置いたまま別の電車に乗ってしまったことを披露しました。そして、その荷物が盗まれることなく手元に戻ってきたことに大いに驚き、「日本はすばらしい国」と絶賛したのでした。
それを“奇跡”と言った知美ちゃんに、仁志さんは「確かに運がよかったよね」と言いながら、次のように語りました。
「でも、日本は昔からそういう国だったんだと思うな。今から400年以上前に、キリスト教を広めるためにやって来たフランシスコ・ザビエルは、日本人について『キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません』(ピーター・ミルワード著、松本たま訳『ザビエルの見た日本』講談社学術文庫)と手紙に書いているんだ。江戸時代末期から明治・大正にかけてやって来た外国人の中にも、同じような声もあるんだよ」
仁志さんの言葉に、“今の日本はどうなのかな”と感じる半面、昔から日本がよく思われてきたと聞かされると、なんとなく誇らしく思う知美ちゃんでした。

■世界から認められた日本

私たちはふだんの暮らしの中で、日本のよさをさほど意識することなく過ごしています。しかし、意識しないことで次第に忘れられていく日本の心や文化があるとするならば、残念なことです。
明治10年(1877)に東京大学の教師として来日したエドワード・モースは、次のように日本人を讃えています。
「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然およびすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやり……これらは恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」(石川欣一訳『日本その日その日(1)』平凡社東洋文庫)
幕末・明治には多くの外国人が日本へやって来ましたが、彼らは「世界一礼儀正しい」「本物の平等精神が社会の隅々まで浸透している」などと、日本人の心のあり方や生き方を認めてきたのです。

■3代続くブラジルでの巡回診療

日本人には昔から、他国でその国のため、人々のために取り組んできた先人が多数います。
“ジャポネース・ガランチード”――これはブラジルの人々が日系人に対して、「日本人なら間違いない」という意味で用いる言葉です。明治以降、日本政府の移民政策によって多くの日本人がブラジルに渡っていきましたが、先人たちはさまざまな困難の中、勤勉、工夫、挑戦、協力し合う心をもって生き抜き、ブラジル社会に貢献していきました。そうした姿が日系人への信頼を高めていったのです。その中には、医師として移民たちの健康を支え、かつ、ブラジルの医療向上に尽くした細江静男さん(1901~1975)の姿もありました。
日本人は当初、コーヒー農園で契約労働者として働きましたが、のちに土地を借りたり買ったりして、自営農家として独立し、日本人移住地を形成していきました。その多くは、都市部から遠く離れた医師などいない土地でした。日本政府は移民事業を失敗させてはならないと、当初より腐心し、移民の健康維持のため、移民の増加とともに多くの医師を派遣しました。そのうちの一人が細江さんでした。
細江さんは慶應義塾大学医学部を卒業後、恩師から「ブラジルに行ってはどうか」と勧められ、その年(1930)の夏に外務省留学医としてブラジルに渡りました。細江さんにはすでに3人の娘がいましたが、そのうちの2人を親元に預けての渡航でした。外務省の委託期間は3年でしたが、生涯ブラジルに留まり、移民のための巡回診療や病院づくりに尽くします。移民を残して帰国はできないという心からでした。
アマゾン流域の奥地までよく回診に行ったことから、“アマゾン先生”と親しまれた細江さん。回診は、年間で約130日、100か所以上、約4000人。病人であれば、日系・非日系を問わず診療を行うというものでした。ブラジル日系社会の保健衛生、医療に関するすべての組織・施設の創立に深くかかわり、ブラジル社会の医療向上に大きな足跡を残したと言われています。
1975年に細江さんが亡くなられてからは、巡回診療は娘婿の森口幸雄さん、そして孫の秀幸さんに引き継がれました。日本全土を超す面積を巡り、移民の健康を守っていくことはたいへんなことです。しかし秀幸さんは、「おじいちゃんに診察してもらい、お父さん、今度は息子さんのあなたに面倒を見てもらえて幸せだ」という人々の言葉を支えに励みます。自己を犠牲にし、相手のために尽くすという、利他の心が3代にわたって受け継がれているのです。(丸山康則著『ジャポネース・ガランチード――希望のブラジル、日本の未来』モラロジー研究所刊を参考)

■「日本人の心」を大切に受け継ぐ

“世のため、人のため”――こうした言葉を父母や祖父母から聞かされてきた人は少なくないはずです。それは、私たちが成長する過程での励ましや叱咤であったかもしれませんし、あるいは、父母や祖父母が自分自身に対して言い聞かせるために口にしていた言葉かもしれません。
こうした言葉が自然に交わされる社会を日本人は築いてきました。そのうえに、ブラジルの細江静男さんをはじめ、多くの日本人の心を持ったよき先人・先輩たちを、私たちは送り出してきたのです。
細江さんが亡くなったあと、お孫さんの森口秀幸さんは遺作集の中で、次のような文章を記しています。
――祖父は、ある時私に聞いたことがあった。「秀坊、幸せって何だろう」と。私はその時何と答えたかは忘れたが、祖父はこう私に言った。「幸せっていうのはね、他人を幸せにしてあげることができることを幸せって言うんだよ」。おじいちゃんは幸せだったね――
正直、勤勉、礼節、孝行、他者への思いやり……「日本人の心」は、決して忘れ去られてよいものではありません。先人が守り続けてきた「日本人の心」を大切に受け継いでいきたいものです。

(『ニューモラル』488号より)

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