自分を律する心 ~ 道徳授業で使えるエピソード~

みんながやっているから、やってもいい?
みんなはやっていないけれど、やるべきことがある。
自分で自分を律することはモラルの原点です。

■みんながやっていることだから?

ある日曜日のことです。郊外のショッピングセンターの周りは、駐車場へ入る車の列で大渋滞。それに加えて、道の両側には、違法駐車の車がギッシリ並んでいます。
「まったく迷惑な駐車よね」
後ろの座席に男の子を乗せて、渋滞の列で順番を待っているA子さんは、なかなか進まない車の列にイライラして、つい文句が出ます。
そのとき、タイミングよく、すぐ左前の道路脇に駐車していた車が出ようとしているのに気がつきました。一瞬ののち、A子さんはウィンカーを出して、その場所に車をとめようとします。
「お母さん、そこにとめていいの?」
「いいの、いいの、みんながやっていることだから」
それを聞いて男の子がポツリ。
「ほんとにいいの……?」

■大人の責任は大きい

子供たちは、身近な大人の話や行為をよく見聞きしています。またテレビなどを通して、社会のいろいろな不正行為を知らされています。
“大人の社会は汚い”
“正直者は馬鹿を見るだけだ”
このような考え方が、子供たちの中に植え付けられてしまったら、子供たちはいっそう大人を信用しなくなってしまいます。
もちろん大部分の大人たちは誠実に働いているのでしょうが、社会全体のモラルの水準が低下してきていることは否定できません。日常、見聞きする出来事が積み重なり、大人に対する信頼感を失った子供たちが成長していった社会はどうなってしまうのでしょうか。
ここで、ちょっと考えてみましょう。社会のモラルの低下を嘆く人は多いのですが、1人ひとりはそのような風潮と無関係なのでしょうか。気づかぬうちに私たちもその原因になっていることはないでしょうか。

■小さなゴミが大きなゴミ山に

次のような話があります。
使われなくなって放置されたビルの窓が割れ、そのままにしておくと、その地域で犯罪が増加するというのです。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。
窓が1枚割られていると、他の窓を割ることに抵抗がなくなり、他の窓を割る人が出てきます。そのまま窓ガラスが補修されないと、このビルは誰からも管理されていないというサインになって、自然とそこに非行少年たちが集まり、犯罪の温床となっていくというものです。
これは社会学では「破れ窓理論」と呼ばれており、犯罪防止のためには、最初の小さなきっかけをつくらないことが大切であるとされています。
同じような状況は、私たちの身の回りにもよく見かけられます。きれいに整備された街路にゴミを捨てることは、心理的な抵抗があって、普通の感覚の持ち主にはできないことでしょう。しかし、少しゴミが目に付くようになるとどうでしょうか。
おそらくはそれを見て何気なしにゴミを捨ててしまう人が増えてくるでしょう。こうして少しずつゴミは増えていきます。ゴミがたまればたまるほど、心理的抵抗は弱まり、加速度的にゴミの量は増えていき、その結果はゴミの山ということになります。
最初はちょっとしたきっかけだったとしても、それが積み重なることによって、大きな問題になってしまいます。現在のモラルの低下にも同じことが言えるのではないでしょうか。“みんなやっていることだから、自分1人くらいだいじょうぶだろう”という気持ちが、大きな問題を生むことになるのです。

■芯の通った生き方

教育心理学者の伊藤隆二氏は、『育ち合うこころ』(モラロジー研究所刊)の中で、ある少年の話を紹介しています。
少年は、父親とともに旅行に出ました。行きの普通電車の車内は掃除が行き届いていないために汚れていました。乗客もゴミを座席の下に捨てていたために、その少年もハナをかんだ紙を、みんながするように座席の下に捨てました。父親は黙って見ていました。
帰りは急行列車に乗りました。この列車は掃除が行き届いており、ゴミを床に捨てる人はいませんでした。少年も自分がハナをかんだ紙を上着のポケットに入れました。
このとき、それを見ていた父親が初めてこの少年の不正をただしました。
「おまえは行きの汚い列車の中ではハナ紙を捨て、帰りのきれいな列車の中では捨てなかった。おまえは自分の行為を場所によって左右されている。そのようなことでは、芯のしっかりした人物にはなれん。どんな場合でも自分が正しいと思うことはする、正しくないときはしないという芯のしっかりした人物になるように心がけなさい」
こう言われて、この少年は行きの列車でハナ紙を座席の下に捨てたことを後悔し、同時に環境に支配されない人物にならなければ、と思ったということです。

この少年は父親から、自分を自分で律していくことの大切さを教えられました。
「自律」は「自立」につながります。自分を自分で律していくことがモラルの原点ではないでしょうか。

■「ならぬことはならぬ」

では、私たちは大人の責任として、次代を担う子供たちに、自分を律することのできるきちんとした基準を、どのようにして示していくことができるのでしょうか。
子供は家庭や社会でのしつけを通じて、「やってはいけないこと」「やらなければならないこと」を学びます。
つまり、しつけは、親や周囲の人々によって善悪の基準を教えられる「他律」といえます。それによって、子供たちは社会のルールを身につけ、自分を律することを覚えていきます。

江戸時代の会津藩(現在の福島県)は、子弟の教育に力を入れたことで知られています。藩校「日新館」に入学する前の6歳から9歳の子供たちは、同じ町内の子供どうしで「什(じゅう)」と呼ばれる10人ぐらいの集団をつくっていました。什には「什の掟」として、
「うそをいってはならない」
「卑怯なふるまいをしてはならない」
「弱いものをいじめてはならない」
などの約束ごとが決められ、子供たちはこれを守るように努めました。
「什の掟」の最後は、「ならぬことはならぬものです」という言葉で締めくくられています。
「ならぬことはならぬ」
短い言葉ですが、現代の私たちに対しても非常に強く響いてくる言葉です。

■1人ひとりのモラルが社会を変える

自分を律するというと、私たちは自分の意欲を抑え込むとか、自分らしさがなくなると受け取りがちです。しかし、決してそうではありません。
易きにつきやすく、周りの情勢に流されやすい人間だからこそ、善悪の基準をきちんと持ち、それに基づいて自分で自分を律することによって、よりよく自分らしさを発揮していくことができるのです。
「みんながやっていることだから、これぐらいのことはしてもいいだろう」から、「みんながやっているけれど、やってはいけないことはやらない」「みんなはやっていないけれど、やるべきことはやる」という心の姿勢を養い、1人ひとりが努力を積み重ねていくことが、子供たちにもよい影響を与え、社会全体をよりよい方向へ変えていく力になっていくのではないでしょうか。

※藩校─江戸時代、藩主がその藩の子弟を教育するために設けた学校

(『ニューモラル』402号より)

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