明日へつながる今日の一歩 ~ 道徳授業で使えるエピソード~

私たちは、心の底に不安が潜んでいたとしても、これを日々の「小さな満足」で覆い隠して、やり過ごそうとしてしまうこともあるのではないでしょうか。
今回は、しっかりと人生を歩んでいくうえで大切なことについて考えます。

■「気楽な生活」に満足?

隆一さん(25歳)は、現在、都内のレストランでアルバイトをしています。
その日、隆一さんが仕事を終えて店を出たのは夜の11時過ぎ。帰り道ではコンビニエンスストアに立ち寄り、夜食と翌朝の朝食を選びます。
隆一さんは大学進学を機に上京して以来、ずっと1人暮らしをしています。
卒業後は機械部品のメーカーで営業職に就きましたが、想像した以上に厳しい仕事だったため、1年ほどで辞めてしまいました。一時は再就職をめざしたものの、結局“次の仕事が決まるまで”と思って始めたアルバイトに落ち着く形となったのです。
正社員として働いていた時代に比べれば、収入は多くありません。それでも毎日の生活費に困るほどではなく、今の暮らしはそれなりに満足のいくものでした。

■募る不安

買い物を終えた隆一さんが、歩道橋を渡っていたときのことです。
雨上がりで階段が濡れていたことが災いし、足を滑らせ転んでしまいました。
「痛いっ!」
どうやら足首を捻挫したようです。なんとかアパートにたどり着き、すぐに床に就きましたが、早朝、強い痛みで目が覚めました。やっとの思いで近くの病院で診察を受けたものの、松葉杖がなければ歩くこともままならない状態になっていました。
こうなっては、アルバイトもしばらく休まなくてはなりません。
“来月の家賃や電気代なんかも、ちゃんと払えるかな……”
これまでにない不安が襲ってきます。

■母親への電話

隆一さんの脳裏に、長野県に住む両親の顔が浮かび、電話をかけてみることにしました。
「もしもし、母さん?」
「隆一、元気にしているの? 携帯に電話しても出ないし……。前に送ったお米はまだあるの?」
ふだんは、なかなか連絡を取ろうとしない隆一さんですが、この日は久しぶりに聞く母親の声に、少しほっとした気持ちになっていました。
「ごめん。ちょっと忙しかったからさ。それが昨日の夜、転んで足を捻挫しちゃって……」
「大丈夫なの?」
「さっき病院にも行ってきたから、心配ないよ。仕事はしばらく休むけど、食事は近くにコンビニもあるし」
「あんまり無理するんじゃないよ」
電話では気丈に振る舞ったものの、いざお弁当を買いに行くとなると、ひと苦労です。なんとか買い物を済ませてアパートまで戻ると、1人きりの部屋の中で、さまざまな思いが浮かんでは消えていきました。
“今の生活はそれなりに楽しいし、何不自由なく暮らせるのは当たり前だと思っていた。でも、けがが治るまでは収入もないし……。この先、もっと長く仕事を休まなければならないようなことがあったら、どうなるんだろう”
これまでそうした現実を直視することを避けて、漫然と日々を過ごしていたことに気づかされた隆一さんは、初めて自分の将来というものに思いを馳せてみたのでした。

■突然の来訪者

翌日の午後、隆一さんの部屋に、チャイムの音が鳴り響きました。
ドアを開けると、そこには母親が立っていました。手には食材がたくさん入ったスーパーの買い物袋を提げています。
「母さん! 大丈夫だって言ったのに」
「隆一が大変なときに、放っておけないでしょう」
そう言うと、話もそこそこに、台所で夕食の準備を始めました。
「健康のもとは食事よ。ちゃんと栄養のあるものを食べないと」
しばらくして、食卓には温かい手料理が並びました。料理を口にすると、懐かしい味に安心感を覚えたのでした。
「父さんは元気?」
「うん、今日も仕事に行ってるよ。あまり口に出さないけれど、あなたのことを心配しているのよ。そうそう、隆一に伝えておけって」
「何を?」
「お父さんも隆一くらいの年のころに、仕事のことで悩んで転職を考えたりもしたんだって。でも、20代は人生の土台を築く時期だから、なんでもいいから一生懸命に努力することが大事だぞって。何をやっても無駄なことはないし、遠回りになってもいいから、年を取ってから後悔しないように、自分の人生に責任を持ってしっかりやってほしいって」
いつもなら、こうした話も聞き流していましたが、この日はその言葉がスッと心に染み込んできました。
「母さん、わざわざ来てくれて、ありがとう」
そんなお礼の言葉も、素直に口にすることができたのでした。

■心に芽生えた「夢」

けがは2週間ほどでよくなり、今では元気にアルバイトに励んでいます。
ある日の休憩時間に、店長から思わぬ言葉をかけられました。
「隆一君、けがをしてから表情が変わったね。それに、前より仕事に対する真剣さが伝わってくるよ」
隆一さんは、けがをしてから考えたこと、母親が来てくれたこと、そして父親の言葉について話しました。
「そういえば高校時代の先生からも、同じような言葉を聞いた覚えがあるな」
それは、「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない人生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」という、山本有三の『路傍の石』の一節でした。そして店長は、こんな話を聞かせてくれたのです。
「実はぼくも、いずれは自分で会社を起こしたいって思っているんだ」
「店長には大きな夢があるんですね。ぼくはまだ、将来のこととか全然考えられなくて……」
すると店長は、隆一さんを元気づけるように言いました。
「夢がないなら、まずは今やっている仕事を究めてみるのもいいんじゃないかな。例えば『日本一の接客をめざす』とか。……なんてね」
半分冗談めかしたような言葉ですが、今の隆一さんには、決して軽い言葉には思えませんでした。
“よし、どこまでできるかは分からないけれど、『日本一の接客』に挑戦してみようかな”そう考えた隆一さんの目に留まったものは、アルバイト先の正社員募集のポスターでした。
“もっとしっかり仕事と向き合っていくためにも、正社員に応募してみよう”
そんな気持ちも芽生えてきたのでした。

■まず、自分の足もとを見つめる

現代は便利さや豊かさの中で、目先の「小さな満足」は得やすくなっているようにも思えます。
ところが、ひとたび将来について考え出すと、漠然とした不安を感じるという人も多いことでしょう。
しかし、人生という地図のない旅を案内するのは、自分自身の心です。旅の目的地をめざして、今という時をどう生きるのか――そのためにはまず、自分自身の足もとを見つめることから始めたいものです。
そこには、どんなに小さなことであっても「今の自分にできること」が、必ずあるはずです。また、自分を支えてくれる家族や友人、職場の仲間など、さまざまな人たちとの「つながり」にあらためて気づいたなら、そこから力を得ることもあるでしょう。あるいは、ここで“自分も誰かを支えることができるようになりたい”という気持ちが湧き起こったなら、それが行動を起こす原動力になるかもしれません。
自分が置かれている状況や、時に目の前に立ちはだかる壁からも目を背けず、今という一瞬を大切にしながら精いっぱい、前向きに歩んでいけば、すぐには壁を越えられなくても、ふとした瞬間に前途が開けてくるのではないでしょうか。
今、このときに踏み出す「一歩」が、私たち自身の人生を方向づけることになるのです。

(『ニューモラル』521号より)

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