家庭で育てる畏敬の心 ~ 道徳授業で使えるエピソード~

私たちは、豊かで恵まれた社会の中で生活を送っています。しかし、モノが豊かになり、生活が便利になる一方で、多くの日本人が、人間の力を超えたものに対する畏れ敬うことを忘れ、精神的なよりどころを失っています。
今回は、畏敬の心を培い、育てていくことの大切さについて考えます。

■「ちがうよ。ボクじゃないよ」

秋空がさわやかな午後のひとときです。
真由美さんは、ひとり息子の雄太君(5歳)と、スーパーに買い物に出かけました。
レジを済ませた後のことです。雄太君はスーパーの袋に食材を移している真由美さんからそっと離れて、店内にあるフードコーナーに行きました。そして、真由美さんに見つからないように、1本だけ無料のストローを手に取り、ポケットにしまいました。
雄太君は、毎回ここでストローを1本ずつ取り、持ち帰っています。そして、ストローを使ってジュースを飲んだり、洗面所で石鹸水を使ってシャボン玉遊びに使っています。
その後、黙って持ってきたことを隠すため、洗面所の流しにストローを押し込みます。パイプの中にストローが入って見えなくなると、雄太君の心は少し軽くなるのでした。

それから半月後、真由美さんは洗面所の水が流れにくくなっていることに気がつきました。
「何か詰まっているのかしら……」
水道のパイプの一部分を外してみると、中から30本ものストローが出てきました。
「雄太、ちょっといらっしゃい!」
お母さんが手にしていたストローの束を見ると、雄太君の顔色がさっと変わりました。
「これ、雄太がやったんでしょう?」
「ち、違うよ」
「こんなことするの、あなたしかいないじゃない! それにどうしてストローがこんなにたくさんあるの?」
「知らないよ。ボクじゃないよ」
うつむきながらも頑として「違う」と言い張る雄太君。真由美さんはそれ以上、何も言うことができませんでした。

■親が見ていなくても、神様が見ている

夜、真由美さんは、夫の政宏さんに今日のことを話しました。
「雄太、絶対に自分がやったことを認めないのよ。いくら無料のストローでも、私に内緒で持ってくるなんて……。こういう小さいことを放っておくと、万引きとか、大きなことにつながるかもしれないわ」
真由美さんの気待ちを理解した政宏さんは、次のように話しました。
「そうだね。ぼくが子供のころ、弱い者いじめや人の物を黙って持ってきたとき、親から『神様はいつも見ているんだよ』と、叱られたなあ。だから『親が見ていなくても、どこかで神様が見ている』と思っていたところがあって、それが結構、心のブレーキになっていたような気がする。今思うと、子供心にも、人間の力ではとても及ばない、人間を超えた何者かに畏敬を感じていたのかな……」
「そうね、私も同じような思いを持っていたわ。どうしたらそういう心を伝えることができるのかしら……」

■「こがたな」と母、そして仏様

長年、幼稚園の園長として、子供の教育に携わった久野和雄さんの体験をご紹介します。

久野さんは園長時代に、あるお母さんからこんな電話を受けました。
その内容は、「スーパーで小学生の男の子が、ガムをこっそりポケットに入れたのを見てしまった。そういう悪いことを園児たちがまねしないよう話をしてほしい」という依頼でした。
そこで幼稚園参観日に、久野さんは次のような自分の少年時代の思い出を園児たちに語りかけました。
――私が小学校3年生のころのことです。よく友だちといっしょに、竹を削っては竹とんぼや紙鉄砲、凧などを作って遊びました。それにはナイフがいります。その当時は「こがたな」と言いました。
私のは兄からゆずられた安物で、あまりよく切れませんでした。兄のこがたなは折り畳み式で、私もそれが欲しくって、欲しくってたまりませんでした。お店の前を通るたびに目に映ります。
お金を出さずに持っていったら泥棒ですね。そこでお母さんの財布からお金を黙って取り出し、次の日、お店屋さんで買って帰りました。そして、それを本箱の裏に隠しておきました。
数日たった朝、台所に行くと、ご飯を炊いていた母が「そうそう、仏様にお参りしよう」と言って、私は仏壇の前に連れて行かれました。手を合わせてお参りをした後で、母が私にこう言うのです。
「夕べ、仏様が夢の中に現れて『和雄の本箱の後ろに危ないものがあるが知っているか』と言われたので、けさ起きて本箱の後ろをのぞいて見たら、こんな『こがたな』があった。お前、これ知っているかい?」と言いました。
しまったと思いましたが、自分が隠したものだから嘘はつけず、うつむいたまま、お母さんの財布からお金を取って買ったことを、ぼそぼそと言ったところ、「そうか、仏様は何でも見ているんだね。だから教えてくださったんだね」と感心して、母はこう言うのです。
「和雄、悪いことはできないな。さあ、もう一度、仏様にお参りしよう」
そして、仏壇に向かって、「夕べはありがとうございました。和雄を許してやってください。二度と悪いことしないと言っていますから。そのかわり、いいことをしたら見てやってください……」とつぶやいて、手を合わせました。
「二度とこんなことをするんじゃないよ。そのかわり、いいことをしたら仏様はちゃんと見てくださるから、しっかりやっていこうね」
と言ってくれました。私はいつとはなしに、涙をポロポロ出していました――
久野さんは話の途中で、母の優しいまなざしが浮かんできて、胸がつかえてきました。このときの思い出は、自分の心に焼き付いて、「もう絶対悪いことはしない」と子供心に誓ったことを園児たちに話して聞かせました。子供たちは静かに耳をかたむけていました。
その後、久野さんは園児の保護者に向けて、次のように話しました。
「今日の家庭教育にいのちが失われつつあるのは、神仏を失っている家庭が多くなっているからのように思われてなりません。子供たちが家庭の中で神仏に接するとき、子供たちの心は正しく導かれ、温かく育っていくものです。幸いにも私の家庭の中に神仏があったことに感謝せずにはおられません」

■家庭内に神聖なる空間を

私たちはわが子の過ちを正そうとするとき、長々と説教したり、時には体罰を加えたりしがちですが、期待した結果にならない場合のほうが多いのではないでしょうか。
大阪大学名誉教授である加地伸行氏は、「父母祖先につながる聖なる空間を家庭の中に持ちましょう」と提唱されています。
「仏壇の前に座ると、並んでいる祖先のお位牌と自分との関係を強烈に意識します。自分が単なる個ではなく、いのちの連続、いのちのつながりの中で生かされている存在であることを実感します。
そして、勝手気ままなことをして、いのちのつながりを断ち切ってはならないと襟を正します。仏壇は、利己的な方向に流されやすい心に歯止めをかけてもくれるでしょう。(中略)
親が朝晩、神仏に向けて正座をしてお参りをすると、子供がいる家庭では、子供が後ろに座ります。そこはまさに聖なる空間です。親と子が聖なる空間に座れば、コミュニケーションが下手でも、黙って通じるものがあります。家族の絆はおのずと太くなります」
(『れいろう』平成14年9月号)
神棚や仏壇でなくても、先祖や両親の写真を置くのもよいのではないでしょうか。大切なのは形ではなく、私たちが大いなるものや祖先の存在を感じながら、日々の生活を送ることなのです。それが過ちにみずから気づく力になっていくのです。

(『ニューモラル』457号より)

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