心の中にひそむ「我」 ~ 道徳授業で使えるエピソード~

物事が自分の思うように運ばなかったり、困難な問題に直面して心のゆとりを失ったとき、その原因を他人や周囲に求めてしまうことがないでしょうか。
そのような一方的な思い込みは、時に人を傷つけ、周囲との人間関係をぎくしゃくさせます。
今回は、内面を穏やかに保ち、人間関係を滑らかにするための心のあり方やはたらかせ方について考えます。

■消えた自転車

「あれ? ない……」
会社員の隆さんは職場からの帰宅途中、最寄り駅前の自転車置き場で、思わず立ち尽くしました。
“おかしいな。今朝、停めたはずの自転車がない”
隆さんの愛車は、ヨーロッパ製のマウンテンバイク。ゴツゴツしたタイヤに肉厚なハンドル、鮮やかなブルーの車体が目印です。長年利用するその屋外駐輪場で、同じ車種を見かけたことは一度もありません。テニスコート五面分はある駐輪スペースの中でも、いつも簡単に愛車を探し当てることができていました。けれども、今日はいくら探しても見当たらないのです。
「盗まれたな」
隆さんはつぶやきました。愛車を失った悔しさに加え、これから自宅まで歩かねばならないわずらわしさを思うと、ため息が出ます。
ふと駅前に目を移すと、コンビニエンスストアの前で、地べたに座りながら、大声で笑っている男子高校生の集団が目に入りました。
“どうして、おれがこんな目に……”
込み上げる憤りを必死に抑えながら、隆さんは自宅へと足を向けました。

■人を疑う前に

「あら、おかえりなさい」
隆さんが自宅マンションの玄関へ入ると、妻の瞳さんが、リビングから声をかけました。隆さんは無言です。
「どうしたの? 疲れた?」
「……自転車を盗まれたんだよ」
「えっ! あのマウンテンバイク?」
瞳さんが驚いた顔で声を上げます。
「そうだよ、あれしかないだろう。明日にでも警察に被害届を出そうと思う。僕の予感だと、たぶん犯人は○○高校のワルどもさ。前からあそこの生徒は素行が悪いと思っていたんだ」
隆さんは興奮しながらまくしたてます。
「落ち着いて。鍵はいつもどおり2つかけたんでしょう? なら、そう簡単に盗まれるはずはないわ。人を疑う前に、冷静に自分の記憶を確かめてみたら」
「言われなくても確かめたさ。記憶違いなんてありえない」
「そう。……待って。あなた今朝確か、出勤前に駅向こうのレンタルビデオ屋さんに寄るからって、少し早めに出たわよね」
それを聞くなり、隆さんは「あっ!」と声を上げました。いつもと違う道を自転車で走った記憶が、鮮やかによみがえってきます。
「そうだ。ビデオを返すために寄り道をしたから……。今日はいつもと反対側の駐輪場に停めたんだ」
渦中の仕事のことを思案しながらの帰宅だったこともあり、普段と違う西口に停めたことを忘れ、いつもどおり自宅に近い東口の駐輪場に行ってしまっていたのです。
「でしょう? もう……、ほんと人騒がせなんだから。焦って警察に行かなくてよかったわ。疑われた高校生もいい迷惑ね」
瞳さんの言葉を聞き終わらないうちに、隆さんは急いで自宅を飛び出していきます。
「すぐ、自転車をとってくるね」
駅前へと急ぐ道すがら、自分の言動を思い返しては、恥ずかしさに赤面する隆さん。
“やってしまったなあ。新たなトラブルになる前に気づいてよかったけど、すぐ人のせいにして怒る癖は直さなきゃいけないな”

■「離見の見」

人は自分にトラブルが起こった場合、自身を省みることなく、まず他人や周囲にその原因を求める傾向があります。
また、私たちの心は強い思い込みにとらわれてしまうと、極端に視野が狭くなってしまうことがあります。
室町時代に能を大成させた世阿弥(1363~1443?)が『花鏡』という書物の中に、「離見の見」という言葉を残しています。
舞を舞う演者の観点を「我見」と言い、舞を見ている観客の観点を「離見」と言います。我見では、目の前や左右を見ることができますが、自分の後ろ姿や演じている姿は見ることができません。しかし、離見では、演者の目で見えないところまで見ることが可能です。
世阿弥は、舞うためには我見だけでなく、離見の見が必要であると説いています。つまり、演者は自分が見ているものだけでなく、観客の目を通して演じている自分の姿も見なければならないという教えです。そうすることによって、美しい所作、芸の完成を遂げることができるということです。
この世阿弥の教えは、役者に限らず、人がより良い人生を築いていくうえでの重要な教訓としても受け取れます。
とかく私たちは「我見」によって、物事を一方的に決めつけ、一面的に判断して、拙速な言動をしてしまうことがあります。
自分勝手な思い込みから誤解を生み、人間関係が悪くなれば、残念なことです。

■心で数える1、2、3……

では、冷静に熟慮できる行動を起こすためには、どうしたらよいのでしょうか。
「熟慮」という言葉の「慮」の字は、「おもんぱかる」と読み、「よくよく考える、思いめぐらす」という意味があります。字源からみた元々の意味は、「心で考えて数える」(角川書店『字源辞典』)です。
ここで、アメリカの情操教育で実際に使われ、効果をあげている方法をご紹介しましょう。それは、「シックスセカンズ・ポーズ」と言われる方法です(高山直『EQこころの鍛え方』東洋経済新報社より)。
高ぶった感情を少し落ち着かせるためには、一般に6秒の時間が必要と言われています。そのため、冷静さを失いそうになったとき、「1、2、3、4、5、6」と、心の中で6秒間かけて、数を数えてみるというものです。わずか6秒間ですが、このつかの間の心のゆとりが、自分と冷静に向き合う、いわば世阿弥の言う「離見」の時間になると言えるでしょう。
責める心を他人に向ける前に、ひと呼吸慮ってみる。そして、自分を振り返る。そうした行動が、私たちの日々の人間関係を円滑なものにしていくでしょう。

■心の中の「我」を浄化する

私たちの普段の生活の場である、職場や学校、地域社会の場面を思い浮かべてみましょう。自分中心の思いから、何事も原因を自分以外に求めて他人を責める人は、えてして人間関係もぎくしゃくしていて、やがて孤立してしまうものです。
一方、何事かが起きたときに、まず相手や周囲を慮った言動ができる人は、良好な人間関係を築き、多くの人望を集めて、喜びあふれる人生を送ります。
両者の差を分けるのは、言うまでもなく「心づかい」の違いです。
人間関係のトラブルの原因の多くは、自分中心の心から生まれる私たちの言動にあります。その心は「我」あるいは「利己心」とも言われます。
自分こそが正しいという「我」は、知らず知らずのうちに私たちの心の中に忍び込んできます。しかし、物事が思うように運ばなかったり、思わぬ障害に出会ったときこそ、その原因が自分の心の中にひそむ「我」にあるのではないかと、反省してみることが大切です。そして、穏やかな心で相手を慮る心、相手の立場に立った思いやりの心を少しずつでもはたらかせることができれば、自分中心の「我」の心が少しずつ浄化され、弱まっていきます。
それはちょうど、コップの中の濁った水にきれいな水を少しずつ注ぐようなものです。すぐにコップの中の水はきれいになりませんが、少しずつでも長く続けると、必ず水は澄んだきれいな水になります。心もこれと同じです。
心の通い合う豊かな社会を築くために、私たち1人ひとりは自分の心にひそむ「我」に気づき、心の中を穏やかで温かい心に変えていきたいものです。

(『ニューモラル』470号より)

☆「道徳の本屋さん」店長の、先生方に ”今” 読んでほしいオススメ本はこちら。

☆1月はじまりの『ニューモラル』手帳+かわいい壁掛けカレンダー+日本の伝統文化を考える1冊をセットしにした、「道徳の本屋さん」の手帳 セットはこちら。