「認めてほしい」を越えて
他のために何かをしようとするとき、心に何を思うでしょうか。それは“誰かの役に立てばうれしい”というような、純粋な気持ちから始めたことであったとしても、心のどこかには「相手の感謝」や「周囲の評価」を期待する気持ちが潜んでいることもあるかもしれません。今回は「よいこと」をするときの自分自身の心を見つめ直してみましょう。
■やったのは私なのに……
中学1年生のAさんのクラスでは、一つの授業が終わるごとに日直の生徒が黒板を拭くことになっています。ところが4時限目の授業の後は、給食の準備などもあって黒板拭きが雑になったり、忘れられたりしがちです。
Aさんはこの1か月間、日直ではない日もほぼ毎日、昼休みに黒板を隅々まできれいにしてきました。それは前に日直になったとき、黒板を丁寧に拭いたらとても気分がよかったからです。
はじめは“出しゃばっているように見えるかな?”とも思ったのですが、ごく親しい友だちのほかは誰もAさんの黒板拭きには気づいていないようでした。そうした中、人知れず黒板をきれいにすることは、Aさんにとって「ちょっとした親切」というよりは「ちょっとした楽しみ」になっていました。
そんなある日、5時限目の授業の最初に理科の先生がこんなことを言ったのです。
「このクラスの黒板はとてもきれいですね。日直はY君ですか。どうもありがとう」
このときAさんは、なんとも言えない気分になりました。
■「分かってほしい」という気持ち
そもそもAさんは“褒めてもらいたい”と思って黒板拭きをしていたわけではありません。むしろ“誰も気にしないほうがやりやすい”と思っていたのですが、先生がY君にお礼を言った後、なんだか自分が損をしたような気分になったのです。
“自分のやっていることを、誰かに分かってもらいたい”という気持ちは、誰しも心の奥底にあるものかもしれません。たとえ親切心や思いやりなどの純粋な気持ちから始めたことであったとしても。
それは自然な感情であるともいえますが、この「認めてほしい」という欲求を乗り越えて、誰かに見られていても、見られていなくてもよい」と思ったことを主体的に続けていくためには、どのような心の持ち方が必要でしょうか。
■「お返し」をする気持ちで
道徳とは本来、見返りを期待しないものです。例えば、誰かに対して親切にする場合、ひたすら相手の幸せを願って行い、または贈り物をするときでも、日ごろお世話になっていることに感謝するなど「相手を思う真心」を添えて贈るのです。
その結果が自然に報われたときは、素直にこれを受け入れればよいでしょう。しかし、たとえ感謝されることがなかったとしても、決して相手を責めることはありません。
私たちは日々、さまざまな支えの中で生活しています。そこには、誰のおかげかが明確で、本人にお礼を言うことができる恩もあれば、自分ではそれと気づかないところで、誰かのお世話になっている場合もあるはずです。
まずはそうした事実に気づいたうえで「自分がこれまでに受けてきた恩恵に感謝してお返しをする気持ち」を培っていったなら、謙虚な気持ちで道徳の実践に踏み出すことができるのではないでしょうか。
そうした心からの実践が、私たちを人間的に成長させ、自分自身の幸せを生み出していくのです。
(『ニューモラル』550号より)