「まさか」を受けとめる
人生においては、時に思いがけない事故や病気に直面したり、事態が予期せぬ方向に進んだりということも起こるものです。まったくの偶然で、原因の追及さえできない出来事も、突然に起こり得ます。そうした「まさか」の事態に直面したとき、これをどのように受けとめればよいのでしょうか。
■僕のことじゃないよな?
高校1年生のD君は、ある朝の通学途中、会社員風の男性と自転車同士の軽い接触事故を起こしました。
D君も相手の男性も、よろけて自転車ごと転びはしたものの、正面衝突は免れたことや、自動車が来ていなかったことなども幸いしてお互いにけがはありません。そのため、名乗り合ったり警察へ事故の届け出をしたりすることもなく、ペコリと頭を下げ合っただけで、その場を後にしたのでした。
ところが、その数日後。D君が通う高校へ、一人の男性から連絡が入りました。
――先日の朝、通勤途中にそちらの生徒さんと接触事故を起こした。その場はお互いに名乗り合うこともなく別れたものの、会社に着いてから改めて確かめると、自転車は損傷しているし、背広の膝は擦り切れ、時計にも傷がついてしまっていた。このままにしておくのは、どうも納得がいかないので、どの生徒と接触したかを確認したい、と……。
男性からの申し出によって初めて事故のことを知った学校では、各担任を通じて事故の状況を全校生徒に伝え、当事者の申し出を待つことになりました。
担任の先生から話を聞いたD君は、こう考えました。“確かに僕も似たようなことはあったけれど、先生が言うのとは日にちが違う気がする。それに、話を聞く限りでは場所もはっきりしないし……あれはきっと、僕のことじゃないよな?”
■原因を追わず善後を図る
自転車をめぐる事故は、誰にとっても他人事とは言いきれません。誰もがいつ事故に遭うか分からないのですから、万一の場合にどのような対応を取るかという危機管理の心得を持っておくことは大切です。
「まさか」の事態に直面したときに適切な対応を取るためには、まず、現実に行うべきことを明確にしておく必要があります。けが人が出た場合はその救護を最優先にすることは言うまでもありませんが、一つには、たとえ通勤・通学の最中で先を急いでいたとしても、事故の程度にかかわらず、必ず警察に届け出ることです。これは後々問題をこじれさせることなく、適切に解決していくためにも必要なことです。
もう一つ、見落としてはならないことは、「ちょっとした接触事故」をうやむやにしておく心の隙ではないでしょうか。
総合人間学モラロジーの創建者・廣池千九郎(法学博士、1866~1938)は、道徳実行の指針の一つとして「原因を追わず善後を図る」という格言を残しました。(参考=『最高道徳の格言』モラロジー研究所)
何か事が起こったとき、私たちはその原因を周囲の状況に求めたり、相手方の過失を責めたりしてしまうことがあります。しかし、これではいつまでたっても問題が解決しないばかりか、互いに不平や不満を募らせて、事態をますます悪化させることにもなりかねません。
「原因を追わず」とは、生じてしまった事態は再び元に戻すことはできないという自覚に立って、前向きに解決に向けた努力をすることの大切さを示しています。そして「善後を図る」とは、すべての問題を自分に与えられた課題として受けとめ、事態を改善するための責任を積極的に担う心で対処することです。
誰もが直面する可能性のある「まさか」の事態には、自分自身の過失によるものばかりでなく、自分には非がないと思える場合、または原因が分からないために有効な解決法を見いだせない状況もあり得るでしょう。しかし、こうしたときも、必要以上に悲観や後悔をしたり自暴自棄に陥ったりすることなく前向きに人生を歩んでいくためには、ふだんから「すべての出来事を意味あるものとして受けとめ、自分の成長の機会にしていく」という「心の姿勢」を養っていくことが大切なのではないでしょうか。
■感謝して立ち上がる
私たちは、どんなに正しく生きることを心がけていたとしても、人生において「いかなる問題にも直面しない」ということはあり得ません。また、どのような危機管理の心得を持ち、予想される問題についての予防策を講じていたとしても、思いがけない事態に直面することはあるでしょう。
私たちの心の力が発揮されるのは、そのときです。個々の問題に対する具体的な対処法以上に大切なことは、すべてを意味あるものとして前向きに受けとめていくという姿勢です。いかなる事態にもしっかりと向き合うことのできる「心の姿勢」をふだんから身につけていれば、苦境にも押しつぶされることなく、明日に向かってしっかりと歩んでいくことができるでしょう。
そして、できることなら、そうしたときも「よい勉強をさせていただいた」という感謝の心をもって立ち上がり、ほほ笑みをたたえて歩み出せる自分でありたいものです。
(『ニューモラル』525号より)