言葉に込める心
「ありがとう」と「すみません」。日常生活の中で人からちょっとした親切を受けたとき、どちらの言葉を返しているでしょうか。私たちがふだん使っている「言葉」とそこに込める「心」を、あらためて見つめてみましょう。
■「すみません」と「ありがとう」
例えば、自分のポケットからこぼれ落ちたものを、道行く人に拾ってもらったとき。道幅の狭い場所を通り抜ける際、「お先にどうぞ」と譲られたとき。建物へ出入りするときに一緒になった人が、自分が通り抜けるまでドアを押さえていてくれたとき。エレベーターに乗り合わせた人が、ボタンを代わりに押してくれたとき……。
私たちは、こんな「ちょっとした親切」に出会ったとき、その相手にどのような言葉を返しているでしょうか。――あらためて振り返ってみると、「ありがとう」ではなく「すみません」と言っていることも、意外に多いのかもしれません。
「すみません」という言葉は、お礼を言うときにも使われますが、謝罪や恐縮の気持ちを表す言葉です。確かに、他者から受けた親切に対して“申し訳ない”という気持ちを持つことも少なくありません。
一方、「ありがとう」は漢字で「有り難う」と記されるように、存在するのが難しいこと、めったにないことを意味します。歴史をひもとくと、平安時代の『枕草子』には、「ありがたきもの、舅にほめらるる婿、また、姑に思はるる嫁の君」という例があります。
この「ありがたい」とは、もとは神をたたえる言葉であったといいます。そして、室町時代ごろには仏の教えを聞いて感激する意で用いられており、めったにないことを感謝する意味になったのは江戸中期(元禄時代)以降であるということです。つまり神仏に対して使われていた言葉が、時を経て、人に対するお礼の言葉として使われるようになってきたのです。
(参考=堀井令以知編『語源大辞典』東京堂出版、日本大辞典刊行会編『日本国語大辞典』小学館ほか)
■「もうひと言」に思いを込める
私たちがふだん何気なく使っている言葉は、ほんのひと言で人を喜ばせたり、励ましたり、あるいは悲しませたり、傷つけたりする力を持っています。後者のような乱暴な言葉や思慮を欠いた言葉を厳に慎まなければならないことは、言うまでもありません。
一方で、前者のような人を前向きにする言葉について考えてみると、それは決して「ふだんは口にしないような特別な言葉」というわけではありません。いつも使っている言葉でも、相手に配慮して少し言い方を変えたり、思いを込めたひと言を添えたりすることで、その言葉を受け取る人の気持ちは大きく変わることがあるのです。
例えば、相手から受けたちょっとした親切に対して「すみません」と言う場合でも、その後に「とても助かりました」や「わざわざご丁寧に」といったひと言を付け加えるだけで、ずいぶんと印象は変わります。それは「すみません」の後のもうひと言に、発した側の心づかいが表れているからでしょう。こうした「温かい心が込められた言葉」が、受け取る側の心に温かさや安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。
■感謝の気持ちを素直に表す
私たちの日常には、人に対して自分の気持ちを伝える機会が大小を問わず、実に多くあります。その中でも、温かい心を言葉に乗せて伝える機会を大切にしていきたいものです。
見ず知らずの人から思いがけず善意を向けられた際に、お礼の言葉を述べることも、もちろん大切です。しかし、むしろ家庭や職場などの日常生活の中で当たり前のようになっている物事にこそ、感謝の心を込めた言葉を伝えてみてはいかがでしょうか。特に家族や同僚などの身近な人に対しては“取り立てて言葉にしなくても、気持ちは伝わっているだろう”などと考えがちですが、「ありがとう」というたったひと言が、身近な人の心やその場の雰囲気を、気持ちのよいものにしてくれるのです。
このように、人から受けた善意や親切に対する感謝の気持ちを、素直に、そして率直に言葉で表すことも、道徳実践の一つといえるでしょう。その実践のためにも、自分がふだん使っている言葉を口調や口癖も含めてしっかり見つめ直すとともに、そこにどのような心を込めているかに意識を向けていきたいものです。また、常日ごろから「相手を思って言葉を選ぶ」ということを心がけていくと、それぞれの場面や状況によりふさわしく、より思いのこもった言葉を、おのずと紡ぎ出せるようになっていくでしょう。 こうして温かい心を言葉に乗せて伝え合うことで、より温かで優しさに満ちた人間関係を築いていけるのではないでしょうか。
(『ニューモラル』545号より)