「当たり前」を見つめ直す

まだ寒い日もある、この季節。もし暖房の効いた部屋の中でずっと過ごしていれば、室内が暖かいことは当たり前に思えてくるかもしれません。しかし長時間の外出の後、冷え切った体で帰宅したときは「暖房のありがたさ」「部屋を暖めておいてくれる家族のありがたさ」など、「当たり前」以外の思いも心に浮かんでくるのではないでしょうか。私たちが毎日の生活の中で「当たり前」のこととして受けとめている物事、その一つ一つに心を向けてみることにしましょう。

■「当たり前」の中にある「有り難さ」

私たちは、他の人から直接的に受けた厚意に対してはすぐに感謝の気持ちを抱くことができても、ふだんからあまり意識せずにお世話になっている相手や、いつも身の回りにあってその存在を当然のように感じている物事に関しては、そのありがたさを忘れてしまいがちです。ライフラインと呼ばれる水道・電気・ガスなども、その一つでしょう。例えば突然の断水や停電などのように何か事が起こり、その恩恵を受けられなくなってはじめて、そのありがたさを身にしみて感じる場合もあるのではないでしょうか。

しかし、ライフラインを安定的に利用できるのは、日夜それを維持する仕事に携わっている人たちがいるからでしょう。日常生活の中ではあまり意識されることがなくても、多くの人たちがそれぞれの持ち場で自分の仕事を成し遂げることによって、社会が円滑に機能し、私たちの暮らしが保たれているのです。

さらに考えてみると、現代の生活に不可欠なライフラインやサービス、社会制度などは、元をたどれば長い年月をかけて整備されてきたものです。今、私たちが当たり前のものとして受けとめている暮らしは、過去に生きた無数の先人たちの努力と苦労の積み重ねの上に成り立っているのです。

こうしたことを考えていくと、「ありがたい」という言葉の重みが実感できます。有り難い――そこには「そのように有ること自体がたいへん難しい」「めったにないことである」と感じられるからこそ、感謝せずにはいられないという気持ちが込められているのでしょう。

「当たり前」の中にある「有り難さ」に気づき、これに感謝する心を育んでいくことで、私たちの日常には、さらなる潤いと温かさが生まれてくるのではないでしょうか。

■「ごちそうさま」は誰への言葉?

茨城県在住の男性、Kさん(66歳)は、ある冬の日の朝、駅の「立喰いそば」の店でのひとコマから得た気づきを、次のように綴っています。

――お店には3名の先客がおり、年配者、中年、若者。いずれも男性である。最初に食べ終わってお店を出て行ったのは中年の男性であった。食べたどんぶりをそのままにして、食べ散らかしたような状態で、急いでお店を出て行った。無言である。次が若者である。食べたどんぶりとコップをカウンターに戻し、「ごちそうさま」と言って出て行った。最後は年配者である。無言でどんぶりをカウンターに戻し、お水を飲みに給水機のところに行き、お水を飲みほすと、お店の戸を開けた。黙って出るのかと思ったら、ボソっと聞こえるか聞こえないような小さな声で「ごちそうさま」と言ったように思えた。

お店のおばさんは、誰に対しても「ありがとうございます」「またどうぞ」「気をつけて行ってらっしゃい」と、明るい声で送り出す。そして手際よく、どんぶりやコップを摑んで、残飯を処理し、洗い場に食器を入れて洗い始める。(中略)

うどんをすすりながら、お店のおばさんに「食べ終わって『ごちそうさま』を言う人と、何も言わずに出て行く人は、どちらが多いですかね?」と問いかけた。洗い物をしながら、おばさんは少し間を置いて、「あまり気にしてませんので……」と答えた。すかさず私は「『ごちそうさま』のひと言も言えない人が増えていませんか。おいしいおそばを食べて、体を温めることができたのだから、『ごちそうさま』のひと言があってもいいですよね。金を払えばいいというものでもないと思いませんか」と、冷たくなった現代人の「言葉をケチる」寂しき現実を批判しながら語りかけた。

そうすると、お店のおばさんから、思わぬ言葉が飛び出してきた。「『ごちそうさま』は、神様に言う言葉だそうですから……」と。私はびっくりした。「でも……」と、言いかけた私は、次の言葉を探した。

「いやー、いいことを教えていただきました。ありがとうございました。そうですよね。お米も小麦粉もお水もネギも、卵もあらゆるものは神様からのプレゼントなんですよね。すべては大自然の作用でつくられたものですよね。人間はただその生育を手伝っただけ。そうか。こうしておうどんを食べさせていただけることも、まずは神様に対してお礼を言うことですね」と言うと、おばさんは「……」と笑顔で応じてくれた――

(『ニューモラル』創刊500号記念提言「現代人のモラルを考える」入選作品より)

■恩恵を自覚する生き方

人は誰も、自分一人の力で生きているわけではありません。衣・食・住、すべてにおいて、身近な人も顔を合わせたことのない人も含む、さまざまな人々に支えられているのであり、そもそも自分が今ここに存在しているということ自体、親祖先や大自然などの「おかげ」であるのです。

私たちは、まさに多くのものの「おかげ」を受けて、「生かされて生きている」といえます。そうした数限りない恩恵を自覚するとき、「ありがたい」という思いが湧き起こり、いっそう心豊かな人生を送ることができるのではないでしょうか。

例えば食事をするときにも、目の前の食物の背後にあるさまざまな「おかげ」の存在を思うだけで、今までとはまったく違った気持ちで味わうことができるかもしれません。何をするにも、その背後には必ず「誰か」や「何か」の「おかげ」があることを思い、“家族だから当たり前”“お金を払ってサービスを受けているのだから当たり前”などと考えるのではなく、日ごろ「当たり前」になっている物事の一つ一つを見つめ直していきたいものです。

(『ニューモラル』522号より)