求めるより自らを正す

学校や会社などの集団において、皆が協力して物事に取り組むとき、熱心さのあまり仲間と衝突し、かえって物事が順調に進まなくなる場合があります。自分も他の人々も生き生きと力を発揮し、結果として全体が発展していくためには、どのような心がけが必要でしょうか。

■自分は何でもできる!?

千葉県の公立高校で野球部の監督を務める田口富一教諭(44歳)は、生徒の上に立つ自分自身の心づかいを反省し、自ら進んで行動を起こしてきた一人です。

田口さんは現在勤務する成田国際高校で、生徒たちの心を育てることに主眼を置き、「野球だけの人はお断り」「右折しても左折してもいいけど、挫折は禁止」等のスローガンのもと、厳しくも伸びやかなチームづくりを進めています。

しかし、教員として今日に至るまでには、さまざまな失敗もあったといいます。

「私には体育教師になった当初から、『自分は何でもできる』という、思い上がりのようなものがありました。野球部の監督になったときも、“厳しく練習すればチームは強くなる”と信じていました。

それでも実際は、そう簡単に強くなるはずはありません。ですから、生徒がミスをすれば、『何をやっているんだ』と怒鳴り、試合に負けると生徒に厳しく当たる。家に帰れば、負けた相手の悪口まで言う……。思うようにならないことを周りのせいにばかりしていたのです。

そんなとき、遠征先で、甲子園で優勝経験のある監督さんとお話をする機会がありました。『どうしたら甲子園に行けますか』と尋ねると、監督さんは私たちの宿泊先の玄関を見て、『履物がもうちょっとそろっていたら、強くなるんじゃないかな』と。

どうしてそんなことをおっしゃったのか、分かりませんでしたが、時がたつにつれて、“厳しく練習すれば強くなる”と思い込んでいた私に対する戒めの言葉だったのではないかと思うようになりました」

田口さんの指導は、これをきっかけに徐々に変わっていきました。

■心を育てることの大切さに気づく

「履物がそろっていたら……」という言葉を通して、田口さんは生徒の一人ひとりの心を育てることの大切さに気づかされたのです。

「それからの私は、心の教育に関する本を読みあさったり、そうしたことを実践されている人に学んだりして、自分の心のあり方を省みるようになりました。また、自らも実践を心がけ、整理整頓はもちろんのこと、心の修養ができる場があれば積極的に参加するようにしたのです。

練習で生徒のミスをあげつらうことは、絶対にしてはならない。試合でも対戦相手がよいプレーをしたら、素直にたたえよう――。相手のミスを願うより、相手を賞賛できる人のほうが、次のプレーに前向きな気持ちで臨むことができると思うのです。

こうした思いが、徐々に生徒に伝わっていったのでしょうね。うれしいことに、前任の若松高校(千葉県)では2005年に、また、成田国際高校でも2008年に、県大会ベスト四に進出することができました」

心の大切さを認め、自ら実践を重ねることによって、周囲に感化を与えた田口さん。整理整頓の行き届いた成田国際高校のグラウンドには、生徒たちの明るくすがすがしい挨拶が飛び交っています。

■足もとから正していく

禅寺の玄関に「看脚下」という言葉が掲げられていることがあります。それ自体は「脚下を看よ」、つまり「足もとを見よ」という意味です。深く解釈すると、「自分の足もとから改めていこう」、すなわち「まず自らの心を正していこう」ということになるのではないでしょうか。

この「看脚下」について、次のような話が伝わっています。

今から約九百年前の中国で、法演というお坊さんが、闇夜に三人の弟子を連れて歩いていました。そのとき突然、提灯の明かりが消えて辺りは真っ暗になり、一行は立ち往生しました。

そこで法演は、三人の弟子に向かって質問をします。
「暗闇を歩くには明かりが必要だが、今、その明かりがなくなってしまった。おまえたちは今、何を悟ったか」

弟子たちは三人三様の答えを出し、その中の一人が「看脚下です」と答えました。すると、法演は「そのとおりだ」と言って、賞賛しました。

暗闇の中での「足もとを見よ」という言葉。それは、どんなときでも冷静に「今、自分はどんな場所に立っているのか」を知ることの大切さを、私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

私たちは何か物事を行うときも、自分の立場や周囲の状況を謙虚に見つめ、まず自分の足もとから正していかなければならないということです。

物事は、“自らなすべきこと”を少しずつ、ひたむきに行うことによって、成就するものでしょう。また、そのような姿勢が、共に歩む仲間や周辺の人々の共感を呼び、皆で一つのことを成し遂げるエネルギーを生み出していくのではないでしょうか。

(『ニューモラル』516号より)