“傍観者”にならないために
私たちはよいことをすると、すがすがしい気分になります。しかし、よいと分かっていることでも、なかなか実行できないのもまた人間です。例えば、バスや電車の中で立っているお年寄りを見かけても、“誰かが席を譲るだろう”と思ったり、周囲の視線が気になったりして、声をかけることができなかったという経験はありませんか。
■傍観者効果の実験
私たちの日々の暮らしの中には、よいと分かっていることでも、行動に移すのをためらってしまうという場面が往々にしてあります。そこには、心の「バリア(障壁)」が見え隠れしています。
心理学では、そのバリアについて「傍観者効果」という言葉で説明しています。傍観者効果とは、約40年前にアメリカで行われた実験によって明らかにされた集団心理の一つです。その実験とは、次のようなものでした。
調査員に扮した女性が学生にアンケート用紙を手渡し、それに答えるように指示し、隣の部屋へと移動します。そして、学生が質問用紙に記入していると、突然、隣の部屋からイスが倒れる音と女性の悲鳴が聞こえてくるのです。
学生が部屋に一人きりの状態でこの実験を行うと、その約7割の人が女性を助けようと行動を起こします。ところが、部屋に二人でいた場合には、行動した学生は4割にまで減りました。
この研究から、一人きりならためらわずにできる人助けでも、周囲に人がいると、「傍観者」になってしまう可能性が誰にでもあるということが明らかになりました。
■人を救った警察官の勇気
次に紹介するのは、緊迫した状況下で目の前の人を救うために驚くべき行動を起こした警察官の話です。
平成19年2月6日、東京都板橋区のときわ台駅で事故が起こりました。線路に飛び出した女性を救助しようとした警察官・宮本邦彦警部(当時・巡査部長)が、ときわ台駅を通過する急行電車が迫るなか、レールとプラットホームの間のわずか30センチほどのすき間に女性を押し込めて、自身の体を盾にしたのです。
現場に駆けつけた同僚から救出され、意識不明の重体で病院に搬送された宮本さんは、その日のうちに緊急手術を施され、この事故はメディアで大きく取り上げられ、「勇気ある行動」として感動を呼びました。しかし、その6日後、宮本さんは家族に看取られながら、静かに息を引き取ります。
■日ごろの献身的な姿
電車が近づいてきたとき、宮本さんには自分の命を守るために一人で避難することもできたはずです。しかし、そんな迷いや電車が迫ってくる恐怖を打ち払い、女性の救助を優先させました。
子供や大人に向けて偉人伝を語り聞かせる活動を各地で展開する株式会社寺子屋モデル代表の山口秀範さんは、現代の偉人伝として宮本さんの絵本を執筆するため、遺族をはじめ多くの人々から話を聞き、その生涯を丹念に取材しました。
そこから浮かび上がってきたのは、街行く人へ笑顔で挨拶をし、高齢者の手を引いて踏み切りを渡り、時には若者の人生相談にまで応じる宮本さんの献身的な姿でした。
日ごろから地域住民と身近に接し、警察官としての職務を超えた人助けを行ってきた宮本さん。その宮本さんが非常時に発揮した勇気は、驚嘆に価します。日ごろの小さな実践の積み重ねのうえに、このような強い勇気が発揮される場合があるのです。
■心は使えば使うほど豊かになる
小さな道徳実行の機会は、私たちの周りにはたくさんあります。例えば、バスや電車内でお年寄りに積極的に席を譲る、駅前や道路のゴミを拾う。また、自宅に帰ったときに自分の靴をそろえるついでに家族の分もそろえる等々です。
普段やっていなかったことは、初めは意識的に行わないと難しいものです。しかし、今より少しだけ勇気を出して実行へと移し、それを何度も続けていけば、抵抗感も少なくなってくるでしょう。
心は使えば使うほど豊かになり、勇気も奮い起こせば奮い起こすほど強く大きくなっていきます。「傍観者」に陥ることなく、一人ひとりが道徳実行の勇気をはぐくんでいきましょう。一人ひとりの小さな勇気が、社会をよりよい方向に動かしていくのです。
(『ニューモラル』501号より)