私が私を悩ませる
人は、誰もが自分を大切に思っています。自分が正しく評価されていないと感じるとき、“もっと自分に合った場所があるはず”“周りの人は自分を理解してくれない”などと考えて、みずから悩みを大きくしてしまうことがあります。今回は、「私」に固執することで生まれる悩みについて考えます。
■私らしさの危うさ
心理学研究者の林道義(はやし・みちよし)氏は、「自分」を追い求めすぎることの危うさを、次のように説いています。
――「好きなことを見つけなさい」は、自分のことだけ考えなさいと言っているに等しい。その上、普通に生きることに価値がなく、何か特別な生き方に価値があるという考えも、背後にあるような気がする。子供に自信をつけたかったら、「好きなことを見つけなさい」ではなく、「人の役に立つことを見つけなさい」と言うべきである。(中略)人の役に立てば、人から喜ばれ、感謝され、好かれ、評価される。本人も気持ちよくなり、自信も出てくる。人柄もよくなり、積極的に社会に出ていくようになる。一生続けられる道も見つかるかもしれない。よいことずくめである。(平成十七年七月四日付『産経新聞』)
夢中になれるものが見つかるのは、幸せなことです。しかし、それを見つけることばかりにとらわれると、自分自身を苦しめることにもなりかねません。「私」に固執するあまり、視野が狭くなり、日々の小さな感動や成長を喜ぶ心を失ってしまうのです。そして、他人のために努力することで心が豊かになり、喜びの多い人生を送ることができるのも、事実のようです。
■日本の公園の父・本多静六(ほんだ・せいろく)
「仕事は一所懸命にやっていれば必ずおもしろくなる。それが成功への道であり、幸福への道である」という確信を一生説き続けた、本多静六という人物がいます。日本初の林学博士で、東京の日比谷公園をはじめ、日本の国立公園のほとんどの設計を手掛け、「日本の公園の父」と呼ばれている人です。晩年は東京帝国大学教授も務めた本多ですが、もともと森林の研究をしたくてこの道に入ったわけではありませんでした。本多静六の生家は、大豪農として知られる家でしたが、本多がまだ幼いとき、多額の借金を残して父親が亡くなり、家は没落して しまいます。本多は書生として他家に住み込みながら、勉学に励みました。その折、家の主人から紹介されたのが、学費のかからない「山林学校」だったのです。自分の目の前に偶然現れたその道を、本多は選びました。そして、目の前の与えられたことを一所懸命にやり続けることで、みずからの人生を切り開いていきました。(渡部昇一・中山 理著『人間力を伸ばす珠玉の言葉』モラロジー研究所刊参照)
人は、ときに思いもよらなかった道が目の前に現れたり、自分のやりたいこととは違う役割が与えられたりすることもあります。自分の思いどおりではない仕事や役割に没頭することは、難しいものです。嫌なこと、おもしろくないことに直面することもあるかもしれません。しかし、“自分らしくいられる場所”を探し続けて堂々巡りになるよりも、むしろ「今、ここ」でやるべきことをやり続けてこそ、新たな発見や喜びも得られるのではないでしょうか。
■自分以外の周囲に心を寄せる
喜びや幸せは、自分一人で味わうより、他の人々と分かち合うことで、いっそう大きくなるものです。さらに進んで、自分の努力や苦労の結果を、他の人の喜びや幸せのために差し上げる─―そんな心をもって自分を高める努力を重ねる人こそ、自他共に幸せを増していく人生を送ることができるのではないでしょうか。どんなことに幸せを見いだすかは、人それぞれでしょう。しかし自他の幸せを増していく人生をめざす人が多くなればなるほど、世の中の「幸せ」の量は、確実に多くなっていきます。心豊かな社会とは、そうした一人ひとりの心がけによって築かれていくのです。
(『ニューモラル』511号より)