それは「相手のため」になりますか

私たちは日ごろの生活の中で、他の人に何かを教えたり、手助けをしたりする立場に立つことがあります。ところが、相手のためを思って行動を起こしても、その結果が必ずしも「相手のため」にはならない場合があります。相手の成長を後押しし、より大きな喜びを生むためには、どのようなことを心がければよいのでしょうか。

■井戸の掘り方を教えよ

困っている人を目にしたとき、私たちは手を差し伸べたい気持ちになるものです。しかし、その動機と目的はよいものであったとしても、なんでも「やってあげる」「してあげる」ということが、必ずしも相手のためになるとは限りません。それは身近な人との間の問題ばかりでなく、国際間、特に開発途上国に対する援助のあり方についても、同じことが言えます。

「水を与えるよりも、井戸の掘り方を教えよ」という言葉があります。援助を必要とする地域に赴いて、渇きを訴える人たちに水を与えるだけならば、その水を飲み干した後は、再び渇きに苦しむことになるでしょう。また、ポンプを備えた便利な井戸を「つくってあげた」としても、現地の人の手で管理できるものでなければ、ポンプが壊れた時点でその役目を果たさなくなります。だからこそ、現地の人たちの技術力に見合った「井戸の掘り方」や「完成した井戸を維持していく方法」を伝える必要があるのです。現地の人たちが自分の手で井戸をつくり上げたなら、達成感と共に、大きな喜びを味わうことができるでしょう。さらには、技術を習得した人たちが周囲にもこれを広めていけば、各地で井戸が掘られるようになり、喜ぶ人や助かる人も増えていきます。

■ケニアに広がるエンザロ・ジコ――方法にも「まごころ」を尽くす

アフリカのケニアにあるエンザロ村では、改良された日本の「かまど」が大活躍しています。エンザロ村には、電気も水道もありません。「エンザロ・ジコ」と呼ばれるかまどができるまでは、地面に大きな石を三つ並べ、その上に鍋を置いて火にかけていました。この方法では、火がむき出しになっているために熱効率が悪く、一度に一つの鍋しか温められません。そのため、「川から汲んできた水を一度沸かし、殺菌してから飲む」ということも、なかなかできなかったようです。エンザロ・ジコは、レンガや石で組んだ土台を粘土で塗り固めてつくるかまどで、一つの焚き口に対し、鍋をかける口が三つあります。材料は現地で簡単に手に入る物ですし、少量の薪でも効率よく鍋を温めることができるようになります。何より、同時に三つの鍋の煮炊きが可能ですから、食事の支度をしながらでも飲み水を沸かせるようになり、乳幼児の死亡率が大きく改善されました。

このかまどを考案して広めたのは、岸田袈裟(きしだ・けさ)さん(1943~2010)という日本の栄養学者です。岸田さんは国際協力機構(JICA)に所属してケニアに渡り、現地の農村の生活を改善するために尽力してきました。そこで現地の女性たちと話し合いを重ね、「ケニアの人たちが本当に必要としていて、しかも自分たちでつくれるものは何か」という視点から考案されたのが、エンザロ・ジコでした。岸田さんによるエンザロ・ジコづくりの講習会に参加した人たちは、自分の村に帰ると、周囲の人にもつくり方を伝えていきました。エンザロ・ジコはこうして広まり、今ではケニアだけでなく、隣国にも伝わっているそうです(参考=さくまゆみこ文、沢田としき絵『エンザロ村のかまど』福音館書店)。

援助を行うときは、相手が現在置かれている状況を深く思いやり、広い視野と長期的展望をもって「どのような手段・方法をとることが、相手にとって将来的に最もよい結果につながるのか」を考える必要があります。このように、何を行うにあたっても、動機と目的だけでなく方法にも「まごころ」を尽くしてこそ、予期した以上の成果が得られるのです。直接かかわった相手だけでなく、その周囲の多くの人々に幸せを運んだエンザロ・ジコの例は、そうした「まごころ」の奥深さを教えてくれます。

■共に育つ心で

みずからの努力によってなんらかの壁を乗り越えたり、自分自身の力で物事を達成したりしたとき、その人の心の中には自信や満足感が生まれます。周囲の人からのせっかくの手助けも、達成感を味わって成長する機会を奪う結果になってしまうとしたら、長い目で見ればお互いの損失につながります。手助けをしようとする人は、その行為を受ける側の個性や能力、適性などを見きわめて、その人が本来持っている力を十分に発揮できるように、心を配らなければなりません。どんなときも「自分も相手も、さらには第三者も含めた全体の調和を図りながら、物事を発展させていく」という、建設的な考え方に基づいて行動したいものです。そこで相手を思いやることを心がけてこそ、周囲の人に安心と満足を与え、共に大きく成長していくことができるのではないでしょうか。

(『ニューモラル』508号より)