「お先にどうぞ」の心

私たちは、特に急いでいるときなど、「われ先に」という気持ちが出てしまいます。そんなとき、心に少し余裕を持って、「お先にどうぞ」と道を譲ってみてはいかがでしょうか。その行為はすなわち、自分の時間をほんの少しだけ犠牲にして、相手に時間をプレゼントしていることでもあるのです。

■時間泥棒?

中堅メーカーに勤める山田さん(25歳)は、営業職として、プラスチックや金属製の部品を自社や協力工場で製造し、それを大手メーカーに供給するという仕事をしています。ある日の朝礼後、山田さんが直属の上司の大山課長(42歳)と、新しい部品の図面について、最終確認をしているときでした。
「山田さーん。電話だよ」
「お電話代わりました。営業二課の山田ですが……」
「山田さん? 実は、とっておきの話があるのですが……」
なれなれしく話す相手の目的は、何かの勧誘のようです。
「ねぇ、山田さん。将来の生活設計、何か準備していますか。実はね、今、皆さんにお勧めしている話があるんですけど、一度考えてみませんか……、絶対、損はしませんよ」
山田さんは、明らかに勧誘の迷惑電話だと確信しました。
すぐにでも電話を切りたいのですが、気の弱い山田さんは、なかなか切り出せませんでした。
「私、そんな話には、まったく興味がありませんから!!」
意を決して発せられた山田さんの声が事務所のフロアに響くと、周囲の人たちはようやく、山田さんの置かれている状況が飲み込めました。大山課長も気づき、山田さんのデスクのところに近づいてきます。しばらく静観していた大山課長でしたが、ついに業を煮やし、山田さんから受話器を奪いました。
「もう二度と電話してこないでください!」
 ガチャン! 大山課長は受話器を置きました。
「まぁ、山田君の性格からして断りにくいのは分かるけれども、仕事には優先順位ってものがあるから、すぐに断らなきゃ。特にこうした迷惑電話は、相手の時間を奪っていることだからね」
「はい。以後、気をつけます」
 すると大山課長はつぶやくように言いました。
「そもそも、ああいう、相手の迷惑を顧みない電話自体が〝時間泥棒〟って言うんだよな」

■〝時間のプレゼント〟をする

その日の昼食後のことです。山田さんは午前中に大山課長と確認した設計図を持って、プラスチックの成型をする協力工場を訪れました。その事務所の玄関ドアの前に立ったときのことです。昼食から戻ってきた若い女性社員と鉢合せとなりました。
その女性は、山田さんに気がつくと、さっとドアを手で引き、「お先にどうぞ!」と、にこやかな笑顔で通してくれました。
感心した山田さんは、設計図の打ち合わせを始める前に、先ほどの出来事を、工場長の大下さんに話しました。すると大下さんは言いました。
「それはうれしいですね。『お先にどうぞ!』というのは、うちの社員が日ごろ、特に強く心がけていることなんですよ」
大下さんによれば、出入口や狭い通路などで相手に譲るのは、近年、全社的な取り組みとなっており、それも自分の会社内で実践するだけでなく、訪問先でも徹底しているとのことでした。
「うちの社長はね、よく朝礼なんかで私たちに話すのですが、『お先にどうぞ!』と譲るのは、ほんのちょっとだけ自分の時間を犠牲にして、相手にその時間を譲ることだって言うんですよ」
山田さんは、またまた感心してしまいました。なにしろ、その日の午前中には、相手の時間を奪ってしまう「時間泥棒」を体験したばかりです。この会社の「時間を譲る」という取り組みが、それとはまさに正反対だと感じられたのでした。この「お先にどうぞ」と相手に譲る心づかいが、「時間のプレゼント」と気づいた瞬間でした。

■僅かな時間を惜しむあまりに

今日、企業間競争が激しさを増す中で、時間当たりの生産性を少しでも高めようと、成果主義の名のもと、社員間の競争が奨励されています。もちろん、社員同士がお互いに切磋琢磨することは、組織を活性化し、企業が競争に生き残るために不可欠だといえます。しかし、その競争が加熱し過ぎると、さまざまな弊害を生じてくるのもまた事実です。

中国の古典に「終身路を譲るも、百歩を枉(ま)げず」という言葉があります。ここにある「枉げず」とは「超えない」ことであり、人に道を譲ったその合計を一生足したとしても百歩の距離にもならないということを示しているのです。
私たちは、僅かな時間を惜しむあまりに、「お先にどうぞ」という相手を思いやる大切な心を失っていないでしょうか。
もし、あなたが道を譲ったり、時間をプレゼントすることの大切さに気づいたならば、たとえどんなに小さなことでも実践してみてください。それをひたすら実践し続けることで、知らず知らずの間に、あなたのまわりに笑顔が増えていくでしょう。こうした姿を目にすることで、きっと、あなた自身がいちばん大きな報酬をもらっていることに気づくはずです。

(『ニューモラル』456号)

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