お世話になりました――恩に気づく ~ 道徳授業で使えるエピソード~
私たちは、人から物を借りたり、助けられたりしたときに「恩」を感じます。このような恩は気づきやすいものですが、身の回りにはたくさんの「気づきにくい恩」もあります。
■社会への恩返し
私たちは、いつも身の回りにあって、存在にも気づきにくいものには、それがどれほど大事なものであっても、あたりまえ、当然なことと思って、恩を感じる心はなかなか生まれてこないようです。気づきにくい恩を意識して、何らかの形でお返ししようとすると、例えば、ボランティアなど、社会への恩返しとなって表れてきます。
私たちは、着るもの、食べるもの、住む家をはじめ、身の回りの人々の働き、また文字とか、言葉とか芸術などの文化的なもののお陰で日々の生活を送っています。また、祖先があり、社会があり、国があって、この地球の上に存在しているのであり、さらに、これらすべてを包んでいる自然の働きという恩もあります。
このように、私たちは数多くの「恩」を受けていることに間違いないでしょう。
私たちは、自分が存在している、生きているということ自体が、そうした多くの恩恵に支えられているのだという自覚を持つことが大切ではないでしょうか。なぜなら、私たちの「いのち」は、何億年も以前から続いていなければ、ありえないからです。1度でも断絶していたら、私たちは存在しないのです。
そして、この「いのち」は、子や孫へと次代に伝えられていきます。社会全体も地球そのものも、同じように次代につないでいかなければならないものです。「自分が恩を受けたと思わない」「昔のことなど知らない」などと言うことはできないのではないでしょうか。
■沈む夕日に感謝するTさん
使わないと衰えるのは、筋力や体力だけではありません。考える、気づくなどという心の働き、つまり「心づかい」も、つねにトレーニングしないと鈍くなっていきます。
恩について考え、自覚していくと、気づきにくい恩や小さな恩にも気づき、感謝の心がわいてきます。感謝の心は、道徳の実行そのものです。そのためにも、日々の繰り返しが大切ではないでしょうか。
愛知県に住むTさんは、北九州にある南蔵院というお寺を訪ねて、住職の林覚乗師の「夕日」という書に出会いました。それは、
「正月に初日の出を拝む人は多いが、大晦日の夕日を拝む人は少ない。毎年大晦日の夕日を眺め、おてんとう様、今年1年ありがとうございました、と感謝することができる人、そういう人こそが、豊かな人生を送ることができるのではないでしょうか」
という内容でした。
Tさんは、その年の大晦日から夕日を拝む決心をしました。孫といっしょに自宅近くにある川の堤防に行き、沈む夕日に向かって、この1年に受けたさまざまな恩に対して感謝の心を込めて祈るのです。
「初日の祈りは、ややもすると『今年1年良い年であるように』という要求心が起こりやすいものですが、1年最後の夕日を拝むのは、1年の出来事に対して、ただ『ありがとうございました』の一念だけなのです」とTさん。
Tさんは、高血圧から自律神経のバランスを崩し、一時期は、めまいや吐き気に悩まされ、夜も眠れずに不安な日々を過ごしたことがありました。また「メニエール氏病」という病気にも悩まされました。しかし、毎晩寝る前に、
「今日は1日、すばらしい日だった。今日、出会った人々は、すてきな人たちばかりだった。すべての人が幸せでありますように」
という祈りを繰り返すことで、心が安らぎ、やがて病も薄らいでいったという経験を持っています。
病気になったことで、自然の恩恵や周囲の人々からのお世話にいっそう気づき始めたTさんは、趣味の水墨画でハガキ絵を描き、出会った人たちや縁のある人の誕生日に送っています。少しでも恩返しができれば、という気持ちの表れです。現在ではその数も5千通以上になっています。Tさんは言います。
「私の絵で皆さんが喜んでくださると、とてもうれしいです。1枚のハガキで社会貢献をさせていただく、それが私の目標です。たくさんの方々にお幸せになっていただきたい、それが私の願いです」と。(『れいろう』平成14年7月号、平成15年8月号より)
■新しい門出に
私たちが生活しているのは、どのような都会生活であっても、結局は地球・宇宙という自然の中から抜け出すことはできません。日常生活のことを少し考えてみただけでも、衣食住すべてのことが、多くの人や物の支えという「恩」によって成り立っていることに気づきます。
私たちは、自分自身が祖先以来の恩に気づくことから始めて、その恩返しを身近な周りの人々に広めていくことが大切でしょう。
1年が過ぎようとするこの時期、あらためて「恩」ということについて考えてみることは、新しい年を考えるためにも意義のあることではないでしょうか。
(『ニューモラル』412号)