「おせっかい」のすすめ ~ 道徳授業で使えるエピソード~
誰かの力になりたい――心の中にそうした気持ちが芽生えたとしても、実際の行動に移せないことがあります。“自分は「親切」のつもりでも、相手にしてみれば「余計なおせっかい」かもしれない”等々、考えれば考えるほどにためらわれ、結果として「何もしない」という選択をする場合もあるでしょう。
そんなとき、思い切って行動を起こしてみると、どのような世界が開けてくるでしょうか。
■気がかりな隣人
佐和子さん(62歳)には、最近、少し気がかりなことがあります。
子供たちが独立した後、都市近郊のマンションで夫婦水入らずの生活を送っている佐和子さん。その隣の部屋に、小さな男の子を持つ若い夫婦が引っ越してきたのは、3か月ほど前のことでした。それ以来、子供を連れたお母さんと、マンションの通路で時々すれ違うのですが、「こんにちは」と声をかけても、伏し目がちに、小さな返事が返ってくるだけでした。
ある日の昼下がりのことです。佐和子さんが買い物に行くために家を出たそのとき、隣の家から、お母さんが子供を叱る声が聞こえてきました。子供は大きな声で泣いています。
“引っ越しの挨拶に来られたとき、お子さんは2歳と聞いたけれど……。ずいぶん厳しいお母さんなのね”
そう思った佐和子さんですが、その後も何度か同じような声を耳にして、少し心配になってきました。ところが夫の浩さん(63歳)は、こう言います。
「厳しくしつけるという教育方針かもしれないから、よその家のことには、あまり口出しをしないほうがいいんじゃないかな」
佐和子さんはその言葉に従って、とりあえずは何もしないことにしました。
■「おせっかい」かもしれないけれど
ある日の買い物帰りに、佐和子さんはマンションの入り口で隣の親子と行き合いました。軽く挨拶を交わして一緒にエレベーターに乗り込んだものの、子供はずっとぐずついていたようで、お母さんも困りきった様子です。
「僕、どうしたのかな? ……おばさんの家で、一緒におやつを食べようか」
気の毒に思った佐和子さんは、子供をあやしつつ、親子を自宅へと誘います。お母さんは、最初は遠慮していましたが、半ば強引に誘ったこともあり、佐和子さん宅へ寄っていくことになりました。
「うちにも孫が2人いるんだけど、下の子が、ちょうど同じくらいなのよ。だから、つい気になっちゃって……。おせっかいで、ごめんなさいね」
お母さんの名前はあかりさん(29歳)、子供は雄馬君(2歳)と言いました。雄馬君の機嫌が直ってくると、佐和子さんたちはお茶を飲みながら世間話をすることになりました。初めは緊張した面持ちで、控えめに相づちを打つばかりだったあかりさんも、佐和子さんの言葉に少し表情をゆるめます。
「2歳くらいって、本当に大変な時期なのよね」
佐和子さんがそう言ったのを機に、あかりさんはポツリポツリと雄馬君や自分のことについて話し始めました。
雄馬君が2歳になったころから「いやいや」が多くなったこと。夫の転勤で、お互いの実家から遠く離れた土地で暮らすことになり、相談できる友人や知人も身近にいないこと。夫は仕事が忙しく、最近は落ち着いて話し合う時間を持てずにいること……。これまでため込んでいた思いが、あかりさんの口からあふれ出ます。佐和子さんはうなずきながら話を聞いていました。
あかりさんがひとしきり話したところで、佐和子さんは言いました。
「1人で大変だったのね」
あかりさんは雄馬君を抱き締めたまま、声を上げて泣き始めました。その様子を見つめる佐和子さんは、“思い切って声をかけて、よかったのかもしれないな”と思うのでした。
■考えるほどに行動できなくなる?
「困っている人」や「手助けが必要そうな人」を見かけたとき、力になりたいという気持ちが芽生えたとしても、なかなか行動に移せないことがあるのは、なぜでしょうか。
例えば「電車の中で年配者に席を譲る」という行為について考えてみると、相手の姿を目にした後、実際の行動に移すかどうかをめぐって、いろいろと頭を悩ますことがあります。単に「自分も疲れているから、できればこのまま座っていたい」という場合もあるでしょうが、それ以外では、どのような思いが私たちの行動を妨げるのでしょうか。
それは、自分の行為が相手に受け入れられなかったときの気まずさにあります。「すぐに降りますので、結構ですよ。ありがとう」と言って、やんわりと断られることもありますが、中には「自分は席を譲られるような年ではない」と言わんばかりに拒絶される場合もあるでしょう。その可能性を先に考えてしまうと、「自分が声をかけることで、かえって相手に不愉快な思いをさせるのではないか」という不安もわき起こります。
こうした場合は「相手の気持ちを推し量ったばかりに、実際の行動に出ることが難しくなってしまった」といえるでしょう。
■本当に「相手のため」を思ったなら
しかし、本当に「相手のため」を思って席を譲ろうという気持ちが起こったのであれば、「何もしない」という選択をするのは惜しいことです。思い切って声をかけてみると、事前にあれこれと気を回したほどのことはなく、よい結果を生む場合も多いのではないでしょうか。
確かに、純粋な「思いやりの心」から行動を起こしたとしても、思うような結果を生まないことはあります。それは、どれだけ相手のことを思いやろうとしても「自分の視点から相手の気持ちを推し量ること」には限界があるからではないでしょうか。そういうときこそ「相手の気持ちや状況をきちんと確かめること」が必要になるのです。まず声をかけてみることは、その第一歩でしょう。
こうした行為は、最初に行動を起こすときにはハードルが高く感じられても、小さな実践を積み重ねていくうちに、それほど構えることなく、自然な形で行動に移すことができるようになります。最初の一歩を踏み出すために必要なのは、ほんの少しの勇気です。
勇気を出して行動を起こした結果が思わしくなかった場合も、ことさらに自分の好意を押しつけようとしたり、相手を責めたり恨んだりすることはありません。次の機会に向けて「思いやりの心」の表し方を前向きに考え続けていったなら、自分自身をより大きく成長させることができるでしょう。
■「おせっかい」は社会の潤滑油
「相手のため」を思ったなら、まず行動に移してみること――それは「おせっかい」と呼ばれる行為かもしれません。もちろん「親切の押し売り」にならないように、配慮する必要はあります。また、その行為によって自分自身や周囲にも危険が及ぶ場合などは、特に冷静な判断が必要です。しかし、あまり深く考え過ぎたがために、せっかく芽生えた「思いやりの心」が行動につながらないのであれば、何も生まれなかったのと同じではないでしょうか。
「おせっかい」を焼く人が少なくなってきた背景には「他人のことにはあまり干渉しない」という風潮があるようです。それは「互いの自由」を尊重する動きとも取れますが、行き過ぎると「無関心」による冷たさを助長することにもなりかねません。
少しの「おせっかい」によって、相手の役に立つことができれば、そこには温かい心の交流が生まれ、人間関係を築いていくきっかけとなります。その意味で小さな「おせっかい」は、社会の潤滑油といえるのではないでしょうか。
(『ニューモラル』574号より)