「やさしさ」から「慈愛」へ ~ 道徳授業で使えるエピソード~

私たちは、困っている人を見かけると、自然に助けたいという気持ちが起こってきます。それは自分の中に慈愛の心が宿っているからです。あなたの心の中のやさしさに目を向けてみましょう。

■見返りを求めない心

「惻隠(そくいん)の心は仁の端(たん)なり」(『孟子』)という言葉があります。
人の苦境を見て、惻(あわれ)み隠(いた)む心、助けてあげたいと思う心は、仁愛の心、慈愛の心の糸口であるという孟子の言葉です。例えば、よちよち歩きの子供が川に落ちそうになっているとき、それを見た人は、われを忘れて駆けより、子供を助けようとするでしょう。“何とかしてあげなければ”という気持ちが、とっさに湧いてくるからです。
そのときの心は、子供の親からお礼を言われたいとか、また助けなければ周囲から非難されるから、というわけではありません。まさに、見返りを求めない心です。これを無償の心といいます。無償の心は慈愛の表れといってもよいでしょう。私たちは、誰もがこの慈愛の心を宿しているのです。つまり、やさしさは慈愛の心の芽生えといえます。
しかし現実には、人にやさしく、親切にするよりも、自分にとって損か、得かを考えて行動したり、人を不公平に扱ったりすることが多いのではないでしょうか。
私たちの心は、良くもはたらき、悪くもはたらくという二面性を持っています。だからこそ、やさしさを発揮して、自分の心に宿っている慈愛の心を大きく育てていくことが大切です。そのための日々の心づかいや行いが、道徳といえるでしょう。

■この町を好きにさせた“おばあちゃん”

道徳とは何も特別なことをすることでありません。思いやりの心にもとづく、日常の小さな行いを積み重ねることです。
次に紹介するのは、中国・西安市から、大学の留学生として日本にやってきた郝妍(かくけん)さんの体験です。

私は日本での生活を何回も夢で想像した。見知らぬ世界経済の大国の豊かさに期待しているのと同時に、不安もいっぱいだった。
こういう複雑な気持ちを抱えて、日本の国土に踏み出したが、私はすぐにこの町が好きになった。(中略)
それは、ある夜のことだった。道に迷った私は、たまたま通りかかったおばあさんに、寮(大学の学生寮)への道を尋ねた。とても信じられないことに、おばあさんは「こんな遅い時間、お1人だったら危ないよ。ばあさんが送ってあげるよ」と言ってくれた。
私は、おばあさんの好意に甘えて無事に寮に着いたが、1人で暗い夜の中に消えていったおばあさんの後ろ姿を見て、目が潤んでしまった。私の安全を心配したおばあさんは、自分の帰り道が怖くないのだろうか。
日本人の人情の冷淡を蔑(さげす)む中国人には、顔の見知らぬ外国人のことで、わざわざ面倒臭がらずに世話をする人はいるだろうか。(中略)
私の日本人に対する不安は、この町に住むということで消えてしまった。この町は私に勇気を与えた。
(「留学生の目に映る町の人々」柏南ロータリークラブ)

人は、人のやさしさにふれて、自分のやさしさを引き出されるものです。慈愛の心の芽生えは、困った人がいたら助けてあげたいと思う心です。そうしたやさしさは、相手の心から感謝の心を引き出すのです。

■増田敬太郎の生き方

やさしさをよりいっそう発揮していくと、慈愛の心にまで広がります。見返りを求めない無償の心で、人々のために尽くした生き方は、長く人々の心に刻まれるでしょう。
私たちは、そうした生き方を先人から学ぶことができます。

明治28年(1895年)、増田敬太郎(熊本県泗水村出身)は、警察官になる夢を抱いて佐賀県警察学校に入り、優秀な成績で卒業し、佐賀県唐津警察署に赴任しました。
当時、日本では伝染病であるコレラが各地で流行っていました。佐賀県の高串地区(現在の肥前町)も例外ではなく、コレラが猛威を振るっていました。
高串地区では、この事態に対応できる駐在巡査の応援を求めました。このとき、増田巡査が抜擢されたのです。
増田巡査はさっそく地区のようすを調べ、区長らとコレラ対策を立てました。高串の人々は病気に対する恐怖心は強いものの、コレラの知識はあまり持っていませんでした。そこで増田巡査は、みずから先頭に立って患者の家を消毒したり、薬の飲み方を教えたり、患者との接触を禁止したりしました。
しかし、そうした懸命の努力にもかかわらず、手遅れの患者が薬を飲んで死んだことがきっかけで、「毒薬を飲まされている」といううわさが広まりました。治る見込みのある患者まで「毒は飲まない」と言い出す始末です。
増田巡査は根気よく人々の誤解を解いて回る一方、コレラで亡くなった人の遺体をたった1人で背負い、対岸の丘の上にある墓地に埋葬しました。病気がうつることを恐れて、村人が遺体を運ぶことを拒むようになったからです。
こうして不眠不休で取り組む増田巡査の体に、コレラは容赦なく襲いかかりました。
「このようになっては、自分の回復の見込みはないと覚悟しています。しかし高串のコレラは、私が全部背負っていきますから安心してください。村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」
死の間際、このような遺言を残した増田巡査は、ついに帰らぬ人となりました。増田巡査、25歳、警察官になって7日目、高串に来てわずか4日目の出来事でした。

■世紀を超えて語り継がれるもの

増田巡査の遺体は、翌日、村人によって火葬されました。村人は深い悲しみに包まれました。その後、コレラは徐々に収まり、村には再び穏やかな日々が戻ってきたのです。
増田巡査の献身的な姿に心を揺り動かされた村人は、増田巡査の遺骨を分けてもらい、地元の秋葉神社の境内に埋葬しました。
それ以後、増田巡査は、住民から「増田さま」と呼ばれて慕われ続けました。そして昭和12年(1937年)、秋葉神社の社殿の改築が行われた際、増田巡査の御霊も合祀され、名称も増田神社と改められました。
こうして、村人を守った増田巡査の偉業は、地元の人々によって、今日もなお語り継がれているのです。
(参考=「増田敬太郎物語」肥前町企画振興課)

増田敬太郎は職務を全うしたばかりか、人々の救済のために献身的な働きをしました。その慈愛に満ちた尊い姿が、人々の心を強く揺り動かしました。
無償の心は永遠のいのちとして生き続けています。

■時代を超える価値

慈愛の表れである無償の心は、わが身を犠牲にすることだけをいうのではありません。私たちの誰もが持っている「人の役に立ちたい」という素直な気持ちも、無償の心の表れです。自分さえよければという自分中心の心を見直して、身近なところからやさしさを発揮していくことが、結果として、次の世代に対する生き方の模範となってくるのではないでしょうか。
慈愛の心とそれにもとづく生き方は、時代を超え、世代を超えた、私たちに共通する大切な価値です。
私たちは、自分の心に宿っている慈愛の心をあらためて見つめ、そのはたらきの価値に気づくとともに、その心を大いに発揮していきたいものです。
そのことが、よりよい自分づくり、温かい思いやりに満ちた社会づくりにつながっていくでしょう。

(『ニューモラル』420号より)

☆『ニューモラル』はこちらから購入できます☆